第二十九話 足利義昭
さて、こうなってくると鍵を握るのは誰あろう、将軍足利義昭である。
覚慶、と言う法名を持っていた義昭が室町幕府十五代将軍として、朝廷から宣下を受けるまで、その人生は激動であった。そもそも彼は、幼い頃から学僧として、奈良興福寺の法階をきわめる人生を志していたのである。
武家になるとは、頭から思ってもいなかった。興福寺ではすでに権少僧都と言う高位を占め、いずれは別当にまで登り詰める栄達の道にいたのである。しかしさる、大事件が一気に運命を変えてしまった。
俗世の兄が、殺害されたのである。
ただの兄ではない。第十三代将軍足利義輝である。永禄の変と言われるこの暗殺劇で、覚慶は実母と弟までも喪い、一気に窮地に立たされた。
兄を殺害した者たちが、興福寺にも攻め寄せてきたのだ。
彼らは義輝の係累で後釜になるものを、根絶やしにする気だったのだ。幸い、重役になっていた彼は興福寺の威勢に守られ、いきなり首を打たれると言うことはなかった。
しかし、厳重な監視をつけられたのだ。どこへ行っても、具足の小札板を鳴らした武者や足軽どもが付いて回り、露骨な威嚇を受けた。
表だって脅しをかけてきたりはしないものの、薙刀や槍など、長柄ものを閃かせて、命令があればその坊主首、いつでもはねてやるのだ、と言うような雑談を聞こえよがしにされたら、たまったものではない。
(還俗して将軍にならねばいずれ、身も心も朽ち果てよう…)
恐ろしかったが、何とかその境遇から脱しようと決意出来たのは、幸いではあった。紆余曲折はあったが、織田信長と言う後ろ楯を得て、今や京都では隠れもない地位に登り詰めたのだ。
先だっては、松永弾正久秀と謁見してやった。誰あろうこの男が三好三人衆と結託して、兄義輝や母や弟を殺し、自分の命まで狙っていたのだと思うと、胸がすく想いだった。
初めは書簡だけのやり取りが続き、心細い日々が続いていたが時が経つごとに、各地からも色よい返事が集まり、自信がつくようになってきた。
(やはり、余は室町公方たる人物なのだ)
義昭は日ごとに、室町将軍としての貫禄を考えるようになった。
永禄十一年(一五六八年)十月の末になり、織田信長が帰国した。義昭の将軍宣下を見届け、上洛の目的は遂げたと言う形である。
義昭は感状を送り、その労に報いた。最大級の感謝を表したく「我が父」と、身分の別を越えて信長を尊崇する形までとった。
「まさにこの上なき格別なる御言葉」
信長は平伏したが、義昭が思うよりは喜色を見せなかった。さらには、義昭が与えた栄位をことごとく辞退し、途端にすげない風を見せ始めたのである。
(この男は、余を誰そと思うぞ…?)
このあと、上洛の労をねぎらう目的で義昭は、観世太夫と今春太夫を召して能を演じさせたのだが、番組に載せられた十三番の目録を一瞥した信長は、
「まだいくさは終わっておらぬだわ」
と、五番に縮めさせた。さらには、鼓が得意だと言う信長の顔を立てようと、義昭は座興を所望したがこれも、
「お見せするほどの芸では、ありゃあせぬで。…慎んでご辞退申し上げる」
と、不興げにはねつけてきたのだ。
(信長の腹の内は分からぬ)
と、眉をひそめた義昭の元へ、一大事件が起きる。信長が帰った途端、義昭のいる御所が襲撃されたのである。
軍勢は三好三人衆のものあったが、率いるは槍を駆る斎藤龍興である。
(めいっぱい、『将軍様』をびびらせてやれか)
火付けいくさに慣れた京中悪党たちを率いながら、龍興は苦笑した。この悪漢こそは、六角承禎の謀の片棒を担いでいる。信長の留守を襲うと言うのは癪だが、成り行き次第では狩り放題と言う、仕掛けいくさは、長い潜伏生活の憂さ晴らしには、格好である。
「何なら、公方だろうが討ち取って構わねえ。どうせ、元は坊主首だッ!」
意気を上げた悪党たちだが、御所から矢継ぎ早に射掛けられた火閃にことごとく、射ち倒される。
「あれは鉄炮か…!?」
龍興は歯噛みした。
(当たりやがる…!)
立て続けの銃撃に龍興も堪らず、馬を停めるしかなかった。鉄炮の命中率などたかが知れている。そう思っていたが、御所には名手がいるらしい。大口径の六匁玉は、当たりさえすれば鉄板の一枚胴具足にですら、風穴を開ける。
十発に七つ当たりがあれば町撃ち(練習)では名手と言われるが、この日は、三発に二つは当たっている。攻め手には銃声がするたび、死人が出るように思えるだろう。
射手は明智光秀であった。信長の眼前で名手の面目を保った光秀だが、追い込まれての実戦は、神憑りの戦果であった。この日はありったけの銃を集めさせ、装填を下人たちに任せると、自分は続けざまに銃を受け取っては、迫る寄せ手に射ちかけたのである。
(思いの外やりやがる…)
龍興は去った。光秀の思わぬ活躍を前に思った戦果は上げられなかったが、六角承禎から預かった目的は十分に果たしていた。
光秀たちが、御所の兵をとりまとめて何とか防戦に努めている間中、義昭は救援を求めて半狂乱になっていたのである。
(信長がいなくてはだめだ…)
義昭は、考えた。
三好三人衆はじめ、京の足軽たちはしぶとく、神出鬼没で、退治たと思えば、新しい大将を奉じて復活し、義昭の身は休まる日がないのだった。
(信長にいてもらわねば困る…)
年明け早々、信長はまた、軍勢を率いて上洛してくるとは言うが。三好三人衆はじめ、京の敵たちは滅ぼされることはなしに、上手く雲隠れしてしまうに違いない。彼らは頃合いを見計らって再集結するのだ。
こうなったらなるべく、信長には、この御所へ目が向く場所にいて欲しいものだ。
そのときふと、義昭は思いついた。
(越前か…!)
かねて懸案の朝倉家である。上洛に非協力的だった朝倉家に対する『処分』が決まっていない。無事、近江まで動座したときは感謝状まで書かされたが、義昭の本心ではちっとも、感謝などしていない。いや、むしろ朝倉家の冷遇にこそ、報いるべきである。
加えて、だ。
朝倉義景は、義昭を助けなかったばかりか、自分の甥の若狭武田元明を人質にとっている。幽閉の憂き目にあっている血縁を実力行使で救いだすのも、将軍の権威あってこそだ。
(朝倉罰するべし…)
謀略の歯車が今、大きく音を立てて軋み出した。




