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花繚(かりょう)の動乱  作者: 橋本ちかげ
第1章 幼蕾淡くほころぶ
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第七話 清洲夜話

 信長は馬上、剣の血をふるった。

 びしゃりと地面に、血泥(けつでい)の一線が引かれた。

 それ以上何も、語る必要はない。問答無用の威勢に、その場にいるものたちは手に手に持った武器を捨て、一斉に平伏した。


「おやかた様ッ」

 ()れた声を震わせ、誰よりも先にその御前へ(ぬか)づいたのは、藤吉郎である。

「大切な妹君を危険にさらし、申し開きの分もござりませぬッ!すべてこの藤吉郎めが責ッ!ここは、この禿鼠(はげねずみ)めのしわッ首にてどうか、どうかお許しをッ!」

 必死に声を張り上げる藤吉郎に、信長は鋭い目線を浴びせた。

「この出すぎ者めがッ!」

 と大喝すると、信長は自分の懐からその足元に、何かを投げた。がしゃりと落ちたのは、闇夜にも輝くほどの黄金の薄板二枚である。

「うつけらまとめて、とっとと去ね。口外無用でかんわ」

「はッ、はッ!ははあああッ!」

 それだけで藤吉郎は、察したようだった。まるで仕掛け人形にでもなったかのように、急いで身体を起こし、信長が投げた黄金を手に男たちに撤収を呼び掛けた。


 恐らく今のは、手討ちにした男への手当と、野盗たちへの口封じである。藤吉郎が連れてきたこの人数は、織田家の足軽などでは恐らくないのだろう。市にはその内情は見当もつかなかったが、事は驚くほどあっけなく収まった。


 藤吉郎たちは潮が引くように一人残らず、夜の(とばり)の中へ消えていったのである。男たちが夜明かしに焚いていた(かがり)だけがそこに居残っている。いまだに音を立てて盛る熾火が、そこにいる者たちの顔を赤々と照らし続けていた。


 悪鬼のように肩を怒らせた信長の他は、市と、帰蝶が放った忍びの兄妹ばかりである。信長は下馬すると、さっき市が手綱を放してしまった馬の(くつわ)を曳いて手ずから戻してきた。


「やはり、良き馬だわ。これを手放す不心得者は、我が母衣衆(ほろしゅう)(旗本のこと)が中にはおらんでかんわ」


 叱りつけたつもりか、信長は押し殺した声で言い、市を睨みつけた。それから、ようやく立ち上がった市に手綱を押しつけてくる。

 生まれて初めて、人の返り血を浴びた今の市にはいつものように抗ったり、口ごたえをする気力もない。まるですがろうとするかのように、信長から手綱をとった。


「大うつけめ」

 この過激な兄は、それ以上は何も言わない。だが代わりにまだ、人脂で曇った備前刀を、火偸たちの方へ差し向けた。


「どうかッ、ご存分に」

 自ら斬られようとするように、首を差し出したのは火偸だ。

「姫君をそそのかした不埒者は、この下賤ものにてござりますれば。どうかこの首にてご容赦をッ」

「その面、見覚えがあるでや。…若衆(わかし)、兄妹ともども、帰蝶めが、手下の者か」

 言われて火偸は、生唾を呑んだ。ここはまさに、生きた心地がしなかっただろう。

「これなる妹めは、ただの(はしため)に。腹黒きこの兄の思惑に、悪銭少々(びたせんしょうしょう)欲しい卑しさに、手を貸しておりましたばかりで」


 信長は、灼けるような視線を二人に走らせた。その殺気だけで、首筋に刃物を当てられているのと、そう変わらない。火偸も埋火も、縮み上がって息を潜めるだけである。


「ふん」

 やがて信長は、物憂そうに鼻を鳴らした。それから懐紙を取り出し、愛刀についた(けが)れを切っ先までゆっくりと拭った。

「下郎が首は、今宵は斬り飽きたでかんわ。…美濃斎藤家に間者でなくば、手討ちにはせぬだわ。…そればかりは確かなのであろうな?」

 恐怖で上手く口が回らない二人を察して、市は声を張り上げた。

「あっ、兄上!そればかりは!この市が首をかけてでも証まするッ」

「で、あるか」

 信長はようやく、剣を納めた。しかしそれでも、頭から信用したわけではない。

「この場は、あやつめの顔を立てようでや。…このまま逃げれば、兄妹ともども追い殺す。今宵のうちに清洲には間違いのう、戻って来るでや」

「間違いなく!兄妹にてお市さまを無事、送り届けまするッ」

 火偸の答えを聞くが早いか、信長は、愛馬に飛び乗っている。あの切り裂くような雷声で悍馬を励まし、再び、翔ぶように去って行った。


 清洲へ戻るなり、湯殿に放り込まれた。

 傍若無人なはずの兄は憎らしいほどに、手回しがいい。どこから市が、藤吉郎たちと揉めていると聞きつけたものか、何もかも知っているような顔で風のように現れた。


(…もう、血の匂いはせぬ)


 来る途中、火偸と埋火が川で濡らしてきた手拭いで、丹念に髪や肌についた血を拭ってくれたが、どこかまだ突っ張った感じが残っていた。


 信長が焚かせていたのは、桃の葉の薬湯である。

 気がつけば心地よく甘酸っぱい香りが沁み渡るように、市の身体から野蛮な悪臭を洗い落としてしまった。


(死んだと思うた)


 胸いっぱいに甘いその匂いを吸い込むと、一気に恐怖感が増してきた。

 この湯殿には、二度と戻れなかったかも知れないのである。


 水滴を弾いて輝く、素肌の胸乳(むなぢ)を押さえ、市はあの野盗の遺骸のことを考えた。


 人体は、血の詰まった革袋のようなものだった。落とされた首にはたっぷりと血が通っていたのだろう。それはみるみる血の気を喪い、憎しげに歯噛みしたその顔のまま土くれのように醜く(しぼ)みだしていた。


 自分の相貌(かお)も、ああして首を打たれたなら、むごたらしく(けが)れ崩れるものだろうか。想うほどに、背筋が震えた。あっけなく打ち飛ばされ、泥を噛んだあの男の首は今の今まで生きて話していたのだ。

 湯上りのまま市は、信長のいる板の間に通された。月明かりが落ちる濡れ縁には、火偸と埋火の兄妹が控えている。


 市は密かに息を呑んだ。

 手討ちにしないとはさっき言ったものの、信長は、帰蝶の手の者であるこの二人には、小牧山城の御殿のことを耳に入れてほしくはないはずだ。それを市ともども、ここへ改めて呼びつけたのは、いったい何のためなのであろうか。


「ふん、市め、今宵こそ思い知ったか。おそがい(恐ろしい)目に遭うて、少しは懲りたであろうがや」


 兄はほくそ笑むように市を皮肉ると、濡れ縁の向こうへ言葉をかけた。


「両人。よう、この不聞者(きかずもの)めを送り届けた。ほめて遣わすでかんわ」


 信長の声音には、さっきと違い、不穏な気配はなかったが、兄妹は身をすくめるばかりである。


「おっ…御仕置(おんしお)きのほどッ、ご存分に」


 火偸の声は、さすがに上擦っている。覚悟してきたとは言え、信長の魂胆が恐ろしい。市を無事送り届けさせ改めてここで、密殺される結末も考えられなくもないのだ。


「あっ、兄上!それにしてもなぜ、あんなに折よくあのように駆けすがりましたのか!?」


 とりなすように、大きな声を出したのは市である。話題を変えることで、信長の機嫌を探ろうとしたのだ。

 もちろん本心からの疑問でもあった。思えば、信長の登場はどこかでずっと、見られていたかのようだった。

 信長は歩み寄らんばかりの市を一瞥すると、板の間の隅にあごをしゃくった。


 見るとそこに、いつからいたのか、紺の袖なし羽織を着た三十年配の武士が居座っている。岩肌から削り出したような厳しい風貌をした、面長の男だ。亡霊のような不気味な気配の立ち上がり方に、市は懸命に悲鳴を呑み込んだ。


「こっ、この仁は…?」

 市は声を詰まらて尋ねた。


 精悍な容貌は、織田の家士に少なくないが、このような異様な気配の消し方を心得ている侍はそうはいない。市が知る侍とは、まったく異質である。


「…草を使うは、おのれめや帰蝶ばかりではにゃあわ」

 ぼそり、と信長は言った。つまりこの男も、忍び者だ。


 ずっと、泳がされていたわけだ。藤吉郎に気を取られて、市も火偸たちもついぞ気がつかなかった。だが無理もない。板の間の薄暗がりで息を潜めているこの男こそが、織田信長が美濃攻略に懸ける工作を担う急先鋒なのである。


森三左衛門可成もりさんざえもんよしなりにてござりまするわも」


 可成は、市に向かって名乗った。どうやら火偸と埋火の方はすでに、顔を見知っているようだった。


「命拾いしたな。…おのれら兄妹、このお市さまに感謝するがええで。作事場に現れしときは、ことと次第によっては、美濃斎藤家の探りものとて責め問い(拷問)も辞さぬところであったでのん」


 じろりと冷たい目で見つめられ、兄妹は、息が詰まるようだった。あとで市が聞いたところによればこの森可成、斎藤道三が長良川で果てたときに国を追われて信長に仕えた経緯があり、美濃斎藤家への恨みは、並々ならぬものだと言うのだ。


「だがことは帰蝶めがいたずらと知れた。…この上は是非もなし」

 信長は言うと、珍しくその厳しい相好を崩した。どこかほろ苦い笑みである。市はそんな兄の表情を、生まれて初めて見た気がした。

「さ、されど兄上!…帰蝶どのは、本気でことを憂いておいでだわ」

 信長が激怒していないと知った市は、勇気を出して言った。

「新たな御殿に違うお方さまをお迎えになるなど、国の大事にもなりまするわも。それをいたずらなどと言うたら、帰蝶どのが可哀そうではござりますまいか…」

 市は、ここで怒鳴られる覚悟であった。尾張一国は信長の差配である。たとえ実の妹とは言え、そのことにまで口を出すのは、差し出がましいことだ。懸命にこの国を治めている信長は許さないだろう。


 しかし、

「で、あるな」

 信長は、怒ることはなかった。どこかしみじみとした口調で、そう言ったのだ。今までで一番信長らしくない、それは声音であった。

「あ、兄上…?」

 市はあっけにとられてしまった。他の二人も同様である。火偸も埋火も、目を丸くしていた。ただ脇に控える森可成だけが事情を察しているのか、寸分も表情を変えない。


(くだん)の『あれ』を」

 ここだけの秘密だと、念を押すように言うと信長は、森可成に、命じた。森可成が取り出したのは、綺麗に折りたたまれた一通の文である。信長はそれを取り上げると、市に向かって差し出した。


「密書…にござりまするか?」

 市が恐る恐る尋ねたが、信長は応えない。


 黙って読め、と言うように、あごをしゃくった。そこで市は信長の手から、ようやくその文を受け取った。幾重にも折りたたまれた紙を広げ、そこに黒々と綴られた筆跡()を読みなぞった。


「これは…!」

 市はそれ以上、次ぐ言葉を喪った。ここに書かれているのは、信長が抱えるもっとも深い秘密だったからだ。




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