第二十七話 浅井の急所
「朝倉を処分…?」
思わず、長政の声が強張った。
だがこの顔ぶれで、そんな動揺を口に出してはならない。
だから必死に取り繕ったが、彼らがこれから長政と話そうとする議題についての警戒心は拭えない。
「…将軍家はこれから、朝倉家をご処分なされるご意向か」
長政が声をひそめて聞いたのは、もちろんこの満座三人の腹積もりを、どうにか探ろうとするゆえである。
織田家へ将軍動座の橋渡し役をしたと言っても、朝倉家の消極的姿勢については、足利義昭のかねての懸案事項ではあった。
今、それが将軍家の命令か、と長政が質問を構えたのも、公式な意見として、朝倉家がどのような取り扱いを今後受けるかと言うことについて、話をすり替えたかったからである。
(義兄上は元より、朝倉家を快く思うまい)
長政の心中に何より、信長へのそんな疑念がある。
「かたがた」
と、明るい声を上げたのは徳川家康である。長政の顔色をいち早く察したか、すかさず取りなした。
「ご処分なるは。穏やかならざるお言葉でござるな。…そもそも朝倉家はまだ、我らに与せぬと決まったわけではありますまい?」
「三河どのが申す通りだでや」
家康の助け舟に、信長も乗った形になった。
「この場で話すは、あくまでも雑話よ。…公方さまがいかに思し召すにせよ、行く末、朝倉家がことは、この信長が話をせねばならぬ立場だで」
そもそもがこの朝倉家じたいが。
将軍義昭を奉じて、室町御所を復権すると言う道筋については、曖昧な態度を終始取り続けた。当初、義昭が頼ったのは、朝倉家だったのである。
しかしこの将軍義昭に対して、朝倉家は粗略な扱いはしないまでも、その望みを聞くことについては、徹底的に渋ったのだ。
煮えきらぬ朝倉家を見限った明智光秀が、織田信長を頼ったのが、まさに歴史的大英断だったと言うことである。
そしてその朝倉家だが。
なるほど、足利義昭を信長の元へ遣わすについては、協力的であった。だがその内実は体のいい厄介払いであり、引き渡しに護衛の兵を寄越したのが心ばかりの餞別、と言ったところだろう。
泥沼の京都政界に引きずり込まれることを、朝倉家が何より忌避した結果だ。
「…朝倉家には遺訓がありまする」
と、その点については、長政は庇う気持ちがあった。
「それは朝倉家の当主は一乗谷を出て戦をしてはならぬと言うもの」
「それは、確かかの有名な金吾宗滴が遺言やな」
傍らにいた松永弾正が、訳知り顔に口を挟んだ。
「先年亡くなった朝倉教景、金吾宗滴は、朝倉家創業以来の名うてのいくさ巧者や」
「さよう、金吾宗滴は我が祖父、亮政が恩人にて」
小谷城の一角に出城を築いて出張り、北近江で頭角を表したばかりの浅井亮政と、六角氏との調停役を務めたのは、他ならぬ宗滴であった。
「金吾宗滴が目指したのは、勢力均衡による近江の安定。…故に一乗谷はその手を他領に伸ばすを慎んできたのでござる」
「で、あるか。義弟…つまりは、朝倉家がいまだ室町御所の再建に手を貸さざるは、その金吾の遺訓を守らんがためと?」
長政は、重々しくうべなった。
「御意に。…今の朝倉家が一乗谷の秩序を守らんとする意志は他国からは想像ができぬ程かたくなかと」
と、長政が言うと信長は、柳眉を持ち上げた。
「朝倉義景めはつまり、悪名高き京中悪党どもと、ことを構える気はないと?」
「それは…」
長政は、答えに窮した。
どうやら信長は、自分から何らかの言質を取ろうとしている、と言うことに気づいたからだ。非公式と言いつつも、この顔ぶれにも、密かな意図がある。
そもそも京中悪党と言うならば、信長の隣に侍るこの新参者の老人こそが、その元締めのようなものではないか。
「義景どのの真意のほど、まだこの長政には読み切れませぬ。…されど義昭公を庇いだて、義兄上につないだるは朝倉家なれば、当然、幕府復権には無関心ではいられぬかと」
長政はやっと、それだけを言ったが、信長が意図した答えとは違ったろう。案の定、横でこれ見よがしに鼻を鳴らしたのは、老獪な悪党であった。
「金吾宗滴めは、腰が軽いくらいの猛将であったが、当代義景はよほど果断の出来ぬ将と見ゆるわ」
松永弾正の意図は、明快である。
この男の目的は信長はじめ新たな京都政界への侵入者を使って、泥沼化した状況を打開しようと言う腹積もりなのだ。
まさかとは思うが、この男の言うとおりに信長が動くとするならば、上洛軍は京中のあらゆる、勢力を敵に回すことになるだろう。根拠地を離れた上洛軍にそんな地力が、あればの話だが。
とにかく、
(朝倉義景を、義兄上に攻めさせてはならぬ)
と、長政は密かに胆に命じた。
自身もいざとなれば、義景本人への説得に当たる覚悟はあるが、それにはまずは、信長の真意を知らなくてはならない。
「義兄上も、室町御所を復権するに、賛同するものの手があると言えば、無下にはされますまい」
「では、あるな」
信長は薄い髭を軽く持ち上げた。
「だが、その手、貸すと申し出てくれれば良かろうが」
「それにはまずは、御所のご威光を復権することにござりましょう」
長政は言った。何しろ、崩壊した室町の政庁は現在、造営中なのである。
「で、あるか。確かに、仏ばかりあってもまず寺山門を作らねば、人は拝みには来ぬでかんわ」
信長は話を切り上げた。長政はそこで、内心ほっとしたが、義兄が取ろうとした言質については、まだ薄氷を踏む想いであった。
(もし義兄上が朝倉家とことを構えるならば…)
長政の浅井家は、どうなってしまうだろう。
まず朝倉家には金吾宗滴以来の誼がある。
そもそも信長の上洛を長政が助けるに当たっても、家中の賛同を得るための条件として、
「朝倉家とは事を構えない」
と言う約定を交わしているのだ。信長が成り行き上、朝倉家と争おうと言うならば、それは一方的な違背だ。
それでも長政が信長についていくにしろ、家中は真っ二つに割れるは、必定である。
(そうなったとき、がぜん力をつけるは、親六角派…!)
長政は、背筋に冷たいものを感じた。
もしかしてこれがまさか、承禎が仕掛けてきた『詰め手』だったのではないか。
このまま、朝倉家が動かなければ、家を乗っ取られるのは長政だ。ことほど朝倉家は、浅井家の急所なのである。まさかこんなことに、気づかずにいるなんて。
(どうにかせねば)
末路は浅井家の転覆。その袋小路へ、一手、また一手と、今、自分は追い詰められつつあるのではないか。
(だが、どうすればよい…!?)
長政はいまだ見えざる敵の本当の恐ろしさを、ここで初めて味わったのである。




