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花繚(かりょう)の動乱  作者: 橋本ちかげ
第3章 花は嵐のさなか
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第二十六話 暗雲群がる

 薄曇りの空が、遠雷の気配を孕んでいる。どろどろと不穏な音が、湿っぽい風に乗って伝ってくる。雷雨の兆しを、暗がりの射した濡れ縁で長政は予感しつつあった。

(京か…)

 陰鬱な空模様が暗示する不吉さを、長政は振り払った。ついに、上洛は成った。織田信長に連れられ、長政は今、京都にいる。


 噂に聞く京都はまさに、魑魅魍魎(ちみもうりょう)跋扈(ばっこ)する、悪しき都会であった。めぼしき建物は壊れているか、焼け跡が修復されないまま残されているし、そこら中に食い詰め者の浮浪者があふれている。治安が悪すぎるので、町衆は上京、下京に分かれ、町木戸を閉ざし、街は市街地のていを成していない。


 悪党と言われる私兵が徒党を組んで大小の武力勢力になり、街道に勝手に関所を作って、通行する旅人から身ぐるみ巻き上げている。弱肉強食を絵に描いたような巷はまさに、この世の地獄である。


 と言うわけで上洛軍の仕事は治安維持と新築造営がもっぱらになった。

 いずれも将軍義昭を据えて足利幕府を機能させるのに必要不可欠な仕事であった。幕府と言う政府機関を再生するのにまず、御殿そのものがなく、幕府の権威として最悪の治安を回復しようにも、出来ない状況にあったからだ。


 長政は織田家の家来と、作事場(工事現場)の管理と警護するよう、信長から頼まれている。まさにいちから幕府を手作りしているような気分だ。


 寄せ場では、他家の侍たちと混じるので、長政も気を許せない。織田勢はもちろん、先の観音寺城攻めのことを根に持っているのだ。喧嘩に発展するような小競り合いもすでに、起きている。中々、気が休まらない。


「長政さま」

 暗がりに埋火が控えている。近江から早馬で夜通し駆けてきたのだ。

「良き知らせと悪しき知らせ、おのおの一つずつ」

「…話してくれ」

 埋火は密書を持たない。帰蝶に組織され、織田家、浅井家とは別に独自の隠密活動をしている。

 言うまでもなく帰蝶の目的は斎藤龍興だが、その暗躍は、長政の求める六角承禎の動きにつながっている。この策士が浅井家に仕込んだ謀略の(とげ)を自力で抜くのが、今の長政の願いであった。

「市が身籠ったのだな。…良き知らせは何にも増して嬉しき知らせだ。孕み子も大事だが、市にはくれぐれもおのれの身を養えと伝えてくれ」

「承知いたしました長政さま」

 埋火はまるで、自分のことのように笑顔を見せてうなずいた。

「本来ならば誰よりも早く、市の元へ駆けつけたいものだが」

「それは仕方ありません。…長政さまは、信長さまと何よりも天下泰平のために」

 上洛の事業は、義昭を送り届けることではない。むしろここからが本番なのだ。

「分かっている。信長公もこれからが正念場であろうからな」


 将軍をもり立てて入洛するまでは、すでに行われている。室町御所を復権するために、どうやっていくかが問題なのだ。制度的に自前の武力を持つことの出来ない室町将軍は、帰結として武力はもり立ててくれる有力大名に依存せざるを得ない。


 信長の一挙手一投足に今こそ、中央政界の目が集まっている、と言っていいときなのである。


「せんだって帰蝶さまとも話していたのですが何よりも今、気がかりなのは六角承禎の暗躍にて…」

「いや」

 と、長政は埋火の見解を細かく、訂正する。

「『親六角派』の暗躍だ」


 六角承禎が姿をくらまし、近江から六角氏は消えた。よって勢力図は一変した。かのように、見えるのだが。


 問題はいぜん、その承禎が生きていることである。城を棄て、勢力を棄てると言う荒業をしてのけた承禎が仕掛けるのは、武士の領分を越えた離れ業である。


 その実態は、いわゆる地下活動だ。血縁や地縁、主従で結ばれる本来の人間関係を超越して、ある目的のために人を結びつけてしまう。


 こうなってしまうと、六角承禎本人の動向だけを追ってもらちが明かない。一体誰が裏切り者で、いつ裏切るのかと言う疑心暗鬼に、心が憑かれてしまいそうだ。


「…ときに、父上が市のところへ来たと言ったな?」

 埋火は、息を殺してうなずいた。

「帰蝶さまのお話によりますれば、お市さまにお薬を」

 眠りの浅い市のために処方されたその薬は、帰蝶の手で調べられている。

 それは確かに毒ではないものの、ある種の麻痺を起こさせるような薬ではあることは、確かだと言うのだ。


「父上は親切な方だ。市に何かするとは、思いはしないが」

 だが久政は、長政が今、口にした『親六角派』の急先鋒ではある。

「なるほど確かに、この長政がやってきたことは父の代の否定だ。父が敷いた道に背き、六角家とことを構えたのは父への反逆ととられても仕方がない」

「その点は確かに、帰蝶さまもご懸念をお持ちでした」


 埋火は身分をはばかって、控えめな言い方をしたが、帰蝶は浅井家の内輪揉めのその黒幕にいるのは、遠藤喜右衛門などより、この前当主浅井久政なのではないかと、ほぼ断定している。


「だが父は勇退なされた。…そもそも、この長政の選んだことで父から何かを言われたことは一度もない」

 穏健で知られる久政だが、もしこの父がその気になってさえいれば、浅井家を割って親六角派として独立することも、出来たのではないか。

「いや、そこまで父は強い性格ではない」

 浅井の勇は、現在の自主独立路線に先鞭をつけた祖父亮政と、同じ大柄な体格と武勇を備えた孫の長政にあり、久政の存在は霞がちではある。

「だが、父のような男が本気になると、それはむしろ恐ろしいのも事実」

 謀略の才の第一歩は相手の立場を気遣える「優しさ」にあると言う。

「その父が、くだんの遠藤を操っているのではないかと言う帰蝶どののお言葉、胸に留めておく」

「長政さまもくれぐれもご用心を」

 埋火は溶けるように、闇へ消えていった。


(そう言えば一度だけ、父に怒られたな)

 埋火が去ってから、長政はそれを思い返した。口にしなかったのは、長政自身に後ろめたい気持ちがあったからだ。

「嫁と子が、離ればなれになる。これを不憫と思わぬか」

 長政に意見するような父ではないが、六角家から押し付けられた正室を、無理やり離縁して返したとき、久政は息子長政を叱ったのだった。

(あれは私が悪い)

 政治的意図よりも何よりも、人として当然の情から出たものだ。


 母親を奪われた息子、万福丸は嫡男として、久政が溺愛していると言う。その久政の心中を思うと、そう簡単には、六角承禎に与する敵として見ることは長政には出来にくかった。


 埋火と接触した長政はそれから、信長の呼び出しを受けた。板の間では酒肴が出ている。干魚に京酒を嗜むのは、信長だけではないようだ。

 目付きに凄みのある老体が、烏帽子に素襖と言うかしこまった服装でありながら、こちらを睨み付けたときは、これが味方かと訝る殺気が匂ってきた。

「松永弾正久秀。…この御老が信長の京での道案内を務めてくれるそうだわ」

 信長は老人を紹介した。


 上洛に際して、すすんで味方になって恩を売ろうとしてきた勢力がいる、とは長政も聞いていた。かつての京都覇者、三好長慶の腹心だったこの男は、京都政界の古狸である。また、厄介そうな男に見込まれたなと、長政は思った。


「あともう一方は、三河どのだで」

 徳川家康は、上洛軍の一翼を担う。三河を今川家から独立させた実力者で「海道一の弓取り」の評判が高い。色白が日焼けした固じしの痩せぎすだが、瞳が円らでどこか愛嬌がある。長政も、話しやすかった。座が和む。

「さて酒でも飲みながら、こたびはぜひ、長政どのも含めて話してゃあ議があるでのん」

 信長は何気ない口調だったが、議題は長政の心胆を寒からしめるものだった。

「越前朝倉が処分を如何とするでや」




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