第二十話 牙を剥く浅井家
六角氏が降伏した。観音寺城から、六角父子はすでに落ち延びたと言う。箕作城が落ちたのが決定的なきっかけで、六角勢は堰を切ったように崩壊した。
みるみるうちに籠城方は戦意を失い、堅牢なはずの山城を棄てて、ほうほうの体で落去し出したのだ。箕作城が落ちたその夜に和田山城が戦闘を放棄し、観音寺城は次の晩に落ちた。逃げ落ちる男女僧俗の中に、六角承禎の姿は見えなかったと言う。
織田信長は、
「乱妨一切停止」
と一言、逃亡する敵方への攻撃略奪禁止を自兵に固く戒めたのだった。
(あの承禎が反撃に出ぬとはおかしい)
そして長政は一人、訝っていた。
誰もが思いつかぬ離れ業をしてのけるのが、甲賀忍びの流れを汲む六角氏の持ち味なのである。信長がしたように城方の逃亡お構いなしとするならば、敗兵を装い、城外で再び兵を集めては、得意の奇襲戦法で、織田方を悩ませてくることも十分に考えられた。
だが、肝心の承禎の行方は一切知れない。近江いちの業師の手の内は、ついに織田方には全く知られぬまま、観音寺本城以外の十八の支城も戦わずして、降伏開城したのである。
「いやあーっ、ははっ、此度はかくかくたる戦果、祝着限りなしだわ!この分だとおやかたさまの武威は都まで知れ渡りましょうなあ!」
藤吉郎の見え透いた追従を信長は、快げに聞き流していた。事実、あまりに容易い戦勝に、機嫌を良くしていたのだ。藤吉郎の言うようにこのまま、電撃的に上洛道を行けば、轟き渡る戦果で三好三人衆も戦わずして蹴散らせるかも知れない。
(かほどの労力で京が獲れるなれば、もっと早く上洛すべきであったかのん)
さしもの信長も、過信しかけていたのである。いや、信長だけではない。陣中は沸き返っていた。
ただ、一人、言い知れぬ危惧を抱えた長政以外は。
(あの承禎との戦いがここで終わろうはずがない…)
六角氏はかつて将軍家の軍勢をも退けたいくさ上手なのである。物量で押してくる織田浅井の連合軍に対して、あの老獪な承禎が、がっぷり四つの押し相撲を仕掛けてくるとは当然思えない。
(そんなことをしても『勝ち目がない』のではなく、『面白くない』と、奴ならそう言うだろう)
策士は得てして、策を凝らして目立つように、敵に衝撃を与えるのと同時に、誰にも気づかれずに策を遂行するのをまた、尊いとするものなのだ。
まるで陥穽である。はめられたものが気づいたときには、奈落の底、すでに手遅れ、打つ手がないのである。
(いざ上洛を推し進めて、そこで取り返しのつかぬことになっては尚更、困る。織田どのに今、それを話すべきか…)
と、長政は悩んだ。だが、何を話すべきだろうか。あっさり観音寺城を棄てた承禎が何か企んでいるかも知れないなどと、信長でなくとも根拠のない話など、誰も耳を貸すまい。むしろ、戦功者への妬みとも取られる可能性がある。
(せめて、先手を引き受けて箕作を浅井勢だけで抜いていたなら…)
忸怩たる長政の苦悩は、深い。
こうなると、自分自身が滑稽にすら思えてならない。父が屈した六角承禎を宿敵としてこの浅井家の独立を守り、承禎との戦歴と経験は誰よりも深く長いはずの長政が、ここ一番の観音寺城攻めで、全く活躍できないのだから。
せんだって、戦勝を賀しに祝宴に沸く織田の本陣を見舞ってきたのだが、家老衆はじめ、諸侯の冷たい視線と密かな侮蔑は、見逃しようもなかった。
「…無礼な。これが湖北の名家、浅井家を迎える態度でござろうや」
随行した遠藤喜右衛門が毒を吐いていた。
(誰が無礼なものか)
毒を吐きたいのは長政の方である。
そもそもこの遠藤があれほとまでに先手を拒否しなければ、水先案内としての浅井家の面目は立ち、上洛行を共にする織田勢とも絆を深めることが出来たのだ。今や全てが裏目である。
「観音寺城、無事、落城の運び。…義兄上にあらせられましては、祝着これに勝るなし。上洛に佳き寿と相成られ目出度き儀にござりまする」
長政は、気の入らない祝賀を述べた。若い小姓衆に取り巻かせて、陽気に振る舞っていた信長は、じろりと切れ長の目で長政を睨んだ。
「で、あるか。…婿どの」
と、信長は満座を眺め渡すと、声を励まし、
「此度の我が先手が上手く箕作を陥れしは、婿どのが快く陣を藤吉郎めの猿づれに譲ってくれたお陰だでや!」
今のは、戦闘を拒否したと思われた長政を庇って信長があえて出した助け船であった。
「京への水先案内は、引き続きお頼み申す。六角どもが持ちたる南近江の領分に当たっては、後日吟味致すゆえ、今宵はまず、陣に帰ってゆるりと休まれえ」
長政は少し、気が休まった。
「いつぞやの近江の銘酒を織田の方々に持って参りました。今宵はぜひ、これで祝賀の続きをば」
長政は用意の酒を配らせると、苦い顔で帰陣していった。
「…長政さま、折り入ってのご相談がござりまする」
長政が、藤吉郎からのふいの訪問を受けたのは、その夜のことである。
「いずれかへ参られていたのか?」
藤吉郎はシワ深い面相に笑顔を作ってうなずいた。どこへとは言わないが、その通りだと言うことだろう。そう言われてみればさっき、織田の本陣には藤吉郎の顔がなかった。
「実は長政さま、六角承禎が一人、息子を置き去りに、小谷方面へ向かったと言う情報が掴めましてな」
「小谷方面へ…ですと?」
藤吉郎は、笑顔が貼りついたままうなずいた。
「そのようなのです。具体的に何をしたと言う話はにゃーのですが、だーです?こりゃ中々気になる動きではありますみゃあか?」
言わずもがなである。まだ戦える城をわざわざ棄てて、身一つで小谷へ向かったとするならば、長政が掴みきれなかった承禎の魂胆は、ここにある可能性が高い。
「ずばり、教えて下さりませ。長政どのは承禎めが、次に何をしてくるとお思いです?」
「…読みきれませぬな」
長政は、圧し殺した声で言った。即答したように見えたが、かなり熟考の末である。
なるほど藤吉郎の情報で、あの承禎がこのまま大人しく引き下がるはずがない、と言う長政の読みは裏づけられた形になりつつあるが、何かとつての多い西ではなく、敵方の巣窟である東へわざわざ奔ったのには、一体どんな意味があると言うのか。
「いやあ、実のところこの藤吉めもそうでしてなあ。ううん、残念だわあ。…承禎との因縁の深い長政さまなれば、何かええ知恵でも出るかと思うたのでござるが」
長政の表情から何か読み取ろうとするかのように、藤吉郎はしばし、微動だにせず、長政を見つめてきた。
「…小谷と言えば、お市さまですな」
おもむろにその名を口にした藤吉郎に、長政は何故かぎょっとした。
「市が…どうなされた?」
「聞き及んでおりまする。…なんでもすでにお市さまは承禎とは、因縁があると」
(まさか…)
長政は襟首に、氷水を垂らされたかのようだった。藤吉郎がそんな情報をどこで仕入れたのかは分からないが、確かに市と承禎には、因縁がある。
だがそれが、承禎の策とどう結びつくかは、見当もつかない。
(だが、気がかりだ…)
長政は、胸騒ぎがしたのだ。
承禎が仕掛ける何事かの、標的は信長や織田家ではない、としたのなら。承禎がその腕を振るえるのは、もともと縁の浅い織田家よりもむしろ…
くだんの遠藤喜右衛門が、長政のもとへ怒鳴り込んできたのは、次の日のことである。
「長政さまっ!もはや織田とは、やってはいけませぬッ!」




