第六話 天が導く死
(兄上め)
想うほどに、心は猛った。考えてみれば聡く切れすぎる、信長らしい明快さだ。が、露骨でありすぎる。
真夏の月が、小牧山を照らしていた。今宵は薄雲一つかかっていない。
冴え冴えと地を青ざめさせてどこまでも照らしあげそうな月の明かりが、今の市はどこか、忌ま忌ましくさえ思えてならない。
「清洲まで送らせよ」
お市は、間者の兄妹に申し出た。念のためである。
さすがに火偸は恐れ多いと拒んだ。
「…聞けばあの藤吉郎なる下郎、生駒屋敷に出入りのものであったそうではないか。この市がいなければ道中を、お前たちは襲われようでや。間者の疑いがあるものは、密かに打ち殺しても咎めだてされることはなかろうからのん」
「しかしそれでは、市さまが危険です」
火偸は咎めるように、市ではなく埋火を見た。藤吉郎の素性を漏らしたのは、妹に違いない。はずみで何もかも市に白状してしまった彼女こそ、悲壮であった。
「この埋火、いつでも覚悟は出来ております…されど、姫さまにこれ以上のご迷惑はかけられませぬ。ここはどうぞ、打ち捨てになさいませッ」
「ふッ、もう遅いだわ」
にんまりと、市は鈍い青色に暮れかかる空にある月を見上げる。
「すでに清洲まで道連れだでや。死骸となれば、我らそろって晒されようでかんわ」
ぞくりとするような潔さである。
二人の兄妹は、呆れてお互いの顔を見合わせた。
「清洲までは、夜更けまでには駆けられよう」
道行を案ずるのは、市たちより、藤吉郎の側だ。当然ながら清洲に至る道は、少なくない。清州城下、信長の目につくところに入るまでに、決着はつけねばなるまい。
「姫君はなぜそう、わざわざ危険を買われるのか」
しきりに不満げな火偸は口をとがらせてぼやいた。
危険の中を這いずり回るべく生まれついたこの男には、どうしても市のような上臈の姫君がすすんで無謀を好む行動原理が理解できない。
「天の導きを待っているのだで」
市は不敵に笑って答えた。
「天の導きですと?」
火偸はついに、目を剥いた。
「どころか、このままでは、冥府の使いが参りまするぞ」
「兄上を見よ。今川治部のあれほどの軍勢に挑まれて、囲み殺されなんだではないか。あれこそ、天の導きだでや。…されば妹の市にもこの先、天の導きがあるとするならば、それが何かを早く知りたいのだわ」
「おやかた様は、おやかた様にてござりましょう」
火偸は呆れた。たとえ血を分けた妹でも、信長の真似など、するものではないし、して何になるとも思えない。
「別して理解は求めぬ」
市は吐き捨てるように言う。図らずも信長の妹に生まれた、その自分にしか分からないことがある。そう、どこか思い詰めているかのようであった。
「野火にござる」
気が逸る市の甲斐駒の轡を、火偸があわてて曳いた。
街道を外れた抜け道の果てにぽつり、明かりが見えたのだ。あれは、盗人宿の存在をあらわしている。野伏せりたちの関所である。
「斬り抜けるのか」
「上手く、やり過ごすのでござりまする」
押し被せるように、火偸は言い含めた。
当時の野盗に交渉は通じない。まず皆殺しにして奪えばよい、そう言う考え方なのだ。あの人数では、こちらには到底勝ち目はない。姿をみせるなどもっての外、抜け道を探して切り抜ける手はあるまい。
「それに、です。…あれが、ただの野盗であれば、まだましでござる」
と火偸は思わず声をひそめた。
「…よもや、あの藤吉郎めの指金か」
「やも知れませぬ。となれば、我ら三人、生きて帰れる手立てはありますまい」
「許せぬッ」
「えっ」
火偸は青くなった。
なんとこの状況で、お市が歯噛みをするほどに怒りだしたからだ。あろうことか、信長譲りの癇癪が、こんなところで一気に爆発したのだ。この先に自分の身柄を狙って野盗どもが群れていると聞けば、普通の娘ならとっくに腰を抜かして、足が萎えているところだ。
この姫君はなぜ違う。
「おのれッ!兄上にかしずくたかだか有象無象の分際でッ!裏では、平然と汚きことに手を染める外道どもめらッ!」
絹を裂くような怒声に、黒毛の甲斐駒も猛り立った。天を衝くがごとき棹立ちのいななきに、火偸ほどの者が思わず、轡を手放してしまった。
「叱ッ」
市の一声下、甲斐駒が飛び出す。黒い弾丸のようになった人馬に、鍛え抜かれた火偸と埋火の忍び者の足さえも、追いつける道理がなかった。
「姫君ッ、おやめなされッ」
跫声高に轟かせて、早馬が駆け入った。
野伏せりどもの宿をそのまま、踏み荒らす勢いである。
男たちは確かに篝を点て、物具取り揃えて待っていた。しかし武装していたのは、夜陰に紛れて密かに清洲の城へ戻ろうとする草の者を討ち取るためであった。
まるで夜討ちである。
荒馬が目の前に踊り込んでくるのに、男たちは茫然とするばかりだった。彼らが色めき立ったのは、駆け込んできたのがたったの一騎、それも乗っているのが無腰の若衆だと気づいてからである。
「藤吉郎ッ!」
天を衝く勢いで、お市はおらびあげた。
「藤吉郎めを出しゃれッ!下郎どもッ、おのれらめ!どうせ、彼奴が指金にて、ここで溜まっておるのであろうがやッ!早くせえッ!」
「…こやつッ!なんじゃ、若衆でも小癪なるに憎体な。どこぞの女郎だでやッ!」
「引きずりおろせッ!」
馬から下ろそうと、男たちが群がってくる。気丈に市は、胸元に隠した小柄を抜きかけた。
「待ちやあッ者どもッ!」
しかし甲高い雷声が、男たちの動きを制する。得物を手に色めき立つ彼らの動きが、一瞬で停まった。
「おっ、お市さまッ」
案の定、人波を割って昼間の小男が出てきた。お市の勘に間違いはない。やはり、藤吉郎がこの人数を駆り出したのだ。
「かような物騒な場所で、何をされておられるか。夜遊びもほどほどになされえッ」
まるで悲鳴のような声だった。この藤吉郎もまさか、市が単騎乗り込んでくるなどとは、夢にも思わなかったに違いない。
「やはりおったでかんわ。…藤吉郎、されば、その物騒な場所を取り仕切るおのれこそ、何者だでや。兄上が威勢をかさに着て、夜陰に紛れて盗人働きとはいかなる料簡かッ」
頭ごなしに叱りつけられて、藤吉郎は目を丸くした。
「盗人…やッ、それは、恐れながらお市さまが心得違いにてござりますればッ!この藤吉郎、お屋形様に仕える身!野盗働きなど、もっての外のことにて!」
「さればかような怪しい顔ぶれを取り仕切って、何をしようとしておった。こんな夜更けに。清洲へ戻る間者の小娘を捕まえて、密かに仕物(暗殺のこと)にかけようと網を張っておったとでも申すかやッ!?」
「お市さまっ」
あまりに剣呑な物言いに藤吉郎も、さすがに顔色を変えた。
「昼間のこと、あれはただの誤解にござりますれば」
お市は、不審そうに鼻を鳴らした。
「この市に隠し事が通せると思うか。…あの兄妹めらは、清洲の帰蝶殿の草よ。藤吉郎、お前が方は、小折の生駒屋敷の下使いにてあろうがや!」
(まずい)
あまりにあけすけな物言いに、息が停まりそうになったのは、火偸と埋火であった。
あれでは殺してくれ、と言っているようなものだ。たとえ相手が織田家の姫であろうと、そこまで肚の内を見透かされたら、あそこの連中だって黙っているわけにはいかなくなるではないか。
「そこまでご存じにてござりましたか…」
さすがに藤吉郎も、暗い顔になっている。ことは内々で済まなくなるとするならば、場合によっては非情な決断を迫られるのも、覚悟の内だと言う表情である。
「おい、ここは、斬るしかにゃあで」
三五縄を柄糸に巻いた男が、野太刀の鞘を払ったのはそのときだった。
「うつけめッ、何をしとりゃあす!やめえッ」
今ふと脳裏をさした暗い気持ちを言葉にされて、藤吉郎は、心臓が停まりそうな顔で目を剥いた。
「お市さまは、信長さまがご縁者だでや!…それもかような美々しき姫御を、おのれの手にかけようとは、おのれ、物狂いしたか。天魔鬼畜の所業だでや!」
「ふン!ここまでやっておいて、何をうさこいことを今さら申すでかんわッ!美濃の間者であるのなら、あの瓜売りの娘であろうと斬れ、と申したは藤吉郎、おのれではにゃあか!今さら何を怖気づくかッ!」
「慮外者ッ!」
言い争う二人を、ぴしゃりと叱りつけたのは、なんと当のお市だ。
「さっきから聞いておれば、その場しのぎの口封じに、この市を弑そうとてか。いかさま悪党の名に相応しきくそだわけだぎゃ。どこまでも見下げ果てた外道どもめらッ、やれるものなら、やってみいッ!」
なんと間の悪い挑発だ。
刃物を抜いた男は、さっ、と顔面蒼白になった。目つきが吊り上がって、まるで何か物が憑いたようだ。何も言わず、馬上の市にいきなり襲いかかる。
「やめえいッ、やめい!やめえッと言うておろうがやッ!」
その男の背に、藤吉郎は死に物狂いでしがみついた。
「…おっ、お市さまお逃げ下されッ!ここはこの藤吉郎めが、納めまする!どうかッ、どうか穏便にッ」
「どけえッ」
小柄ではしこいとは言え、大太刀をふるう男の膂力にはかなわない。やがて男の背から、藤吉郎は振り落とされた。
「もう遅えでかんわッ!」
大振りの一撃の刃風が、お市を脅かした。お市は身をひねって辛くもそれはかわしたが、次の瞬間、恐怖を覚えた馬が棹立ちになり、鞍上から振り落とされる。
「くっ」
上手く馬の反対側に転げて受け身はとったものの、顔に泥がふりかかり、無防備な姿勢をさらしてしまった。そこを拝み打ちにしようと、男が大きく野太刀を振りかぶって迫ってくる。
(しまった)
「お市さまッ」
刹那、甲高い悲鳴とともに、埋火は飛び出していた。もはや、なりふりなど構ってはいられない。兄の火偸の気配がそこへ追いすがったが、あの乱心者の動きを停めるにはもう一歩遅い。
(いかん)
頭蓋を叩き割られた市の骸が、そこに転がるか、と思ったときだった。
「退きゃあああッ!」
空気を切り裂くような叫喚が、一帯に轟き渡った。怒涛の馬蹄とともに迫ってくるその絶叫は、その場にいる誰もを一瞬で凍りつかせた。いったい何が起こったかと思わせるような一声だ。野太刀を振りかぶった男も例外ではなかった。
「なんじゃ…」
しかし、本当に愕くべきは次の瞬間だった。
翔ぶように鹿毛の悍馬が踊り込んできたのである。
その勢いは、先のお市の比ではなかった。
悍馬は猛獣のように荒れ狂って、泥の塊を跳ね上げて、地を踏み荒らした。このとき誰もが刹那、息を呑んだ。
なんとその馬上に在るのは、渦中の信長本人だったからだ。
(あっ、兄上)
そのとき、信長は声を漏らしかけた市に一顧だにしなかった。
手綱を曳く勢いで振り上げた利き手に濡れ濡れと輝くのは、緋の手貫き緒を絡めた、備前刀である。
そのまま物も言わずに信長は、乱心者の首を刎ねたのだ。
「ぎゃっ」
雨に濡れた筵を打つような、ピシャ!と言う破裂音が上がった。
刃は硬い首の肉を一瞬で通り抜け、天高く刎ね飛ばした。
眼を見開いたままの首は驚くほど舞い上がり、ぐるりと回って闇に落ちた。
さらにその首よりも高く上がったのは、残った胴から噴いた血潮である。瞬時に断たれた頸動脈から噴出した血流は、棒のように太く、盛大な水音を立てた。
そしてその血潮が重力に負けた後は桶からこぼしたように、市の方へ降りかかってきたのである。
(熱い)
あまりのことに茫然としたまま、市は真っ向、それを浴びた。
顔に跳ねた人血は、湯のように温かく生臭かった。