第十六話 六角征伐
「喜右衛門、まさか悪酔いでもしたか」
と、長政は皮肉るように言ったが、その心底は察しているつもりだ。
この遠藤、佐和山城との会見のあと柏原に移り、菩提院の酒宴では信長の盃を受けていたのだ。憩いの席に侍ったのは思えば、夜襲の隙をうかがってのことに、違いあるまい。
「新九郎さま、この喜右衛門がいつ、節を違えしことありしか」
と、遠藤は冷たく澄んだ目で言った。
「信長は、危うし。これは一貫してお諌め申し上げておることに他ならず!」
「その議は尽くしたのではないのか」
長政は、押しきるように言った。
「かの野良田合戦以降、浅井家は独立独歩の道を模索してきたはず。六角の支配を免れ、朝倉家と対等の威を張る。それには、織田家との親和が唯一の方策である。…そう進言し、安養寺を動かしたのは、そもそも遠藤、お前ではなかったのか」
「殿、それはそのときこの喜右衛門が織田信長、と言う男そのものを知らなんだ故にござりまする」
と、遠藤は懺悔するように言った。
「六角承禎は名うての曲者、朝倉義景は与しやすし、されど腰重き大守、浅井長政と言う戦国大名が名を成すために交誼を持つは、いずれも不安と」
「されば」
「されば信長、と言うのが、この遠藤喜右衛門、一の失策にござった」
遠藤は長政にすがりつかんばかりにして、訴えた。
「織田信長は、浅井家の全てをふいに致しましょう。そもそも出来星の成り上がりめが天下に武を布くなどと、この『目』に張るはまさに大うつけ、しくじればそれほどに大きな下手を打つ大博打、見せかけの威勢にうつつを抜かしては、今にあおのけに高転びするは必定のことッ!」
「喜右衛門」
長政は、遠藤の激昂に水を浴びせるように言った。
怒鳴りつけて黙らせるのではなく、猛り狂う暴漢を背中から忍びいって仕留めるような冷厳な声音である。
「なるほど、そちの言うとおり、信長どのが仕掛けるは大博打だ。もししくじれば織田家ともどもこの長政の浅井家も、滅びるは必定」
「…ならば」
「だが。それで今、信長どのを討ち取ってどうするつもりだ?」
勢い込みかけた遠藤に、長政はぴしゃりと言った。
「信長どのを失えば、我らはその『高転び』の失敗とやらに自らを追い込むのも同じ。頭を冷やして考えるがいい。…すでに、賽は振られているのだ。織田家の目が消えれば、長政の周りに残るは敵のみ。それが分からぬ喜右衛門ではあるまい」
「うっ…」
遠藤はついに言葉につまった。
まさに、長政の言う通りでしかない。反論は無かった。これでもし何かを口にすれば、理屈では言い負かされ、遠藤は、長政の戦術眼が狂っていないと言うことを認めざるを得なくなってしまう。
その上で強って信長を討つと言うなら、この場で長政を殺す覚悟を決めなくてはならないだろう。
だがそれでもなお。
「喜右衛門よ…」
と、言いかけて長政は思わず上らせた言葉を呑み込むしかなかった。
(お前ほどの老臣がいったい、誰に誑かされている?)
遠藤は、操られているのである。だからこそ、今、信長を害せばかえって身の破滅だと言う当然の末路が視野の内にない。完全に何者かの調略によって盲られているのである。
絵図の主には、見当がつく。長政がこれから、除こうとしている相手に決まっている。
(お前は承禎の術中にいるのだ喜右衛門)
しかし、ずばり遠藤を糾弾してそれも何になると言うのだろう。遠藤は改心すまい。むしろ、顔を潰されたと思うだろう。例えば浅井家満座の中で、長政が遠藤の無謀をただしたりなどしたらである。面目をつぶされた武士は、ますます理屈で収まらない。道理や利害すら度外視になることが多い。
どころか下手に裏切り者扱いすれば、この老臣は引き抜けるだけ浅井家の兵を抜き、敵方に走ることだろう。
まったくの話、正論で人の目を醒まさせることが出来れば、苦労はないのである。
「いずれ、今夜の儀は分かったか。それだけ納得しろ。夜討ちに道理なし、無用の出撃まかりならぬ。これ以上お前が押し切る、と言うならば、今の話を大広間に全員を集めて議論することにするが、良いか」
「殿こそッ!とくとお考えあれッ!今!この機を逃せばッ!我らはこれまでなのでござるぞッ!?」
遠藤はしつこく、食い下がった。
「織田からもらった姫にうつつを抜かしている場合にござるかッ!?」
「なんだと…?」
今の一言は、長政の逆鱗に触れた。あの沈着な長政が、怒りに目を剥くと遠藤の胸ぐらを荒々しく掴み上げたのだ。
「同じことを今一度この長政の前で言ってみろ。…喜右衛門、お前と言えど議に及ばぬ。その場で、斬る」
「ぐ…」
信じられない大力である。具足をまとった遠藤の両足が宙に浮いた。抜刀せずとも、今の長政ならそのまま遠藤を縊り殺していただろう。
我に返った長政は息を呑んで、遠藤を突き放した。がちゃりと具足のまま、遠藤は転げて納戸にぶつかったが、窒息したのかろくに声も出ない。
「分かったら消えろ」
長政は、冷たく言い捨てた。
それから脂汗の浮いた青黒い顔で立ち上がると遠藤は無言で去り、その晩、小谷からついに夜襲の兵は出なかった。こうして織田信長暗殺は、未遂に終わったのである。
織田信長の上洛軍は、六万に迫る。軍兵は岐阜を目指して集結する。進発は九月五日と決まり、信長は上洛の準備に余念がない。
六角承禎は、信長の提案を蹴った。六角家は将軍を奉じての上洛軍に参加することを拒み、信長の進路を阻む道を選択したのである。信長はこれで晴れて長政と、六角家の征伐に乗り出すことが出来た。
物量的な軍事力からするならば、六角氏のそれは織田、浅井の連合軍の足元にも及ばないことは明らかである。それでも承禎が退く決断をなさなかったのは、無謀と言わざるを得ない。
「うつけものども。理解に苦しむでや」
圧倒的有利にありながらも、理に合わぬことを信長は、何よりも厭う性格である。
「恐らく敵方が抗う構えでいるのは、まず二つの利を信ずるが故でしょう」
六角氏と敵してきた長政は信長の疑問を解き明かすために、言った。
「まず一つ。甲賀の忍び者を要する六角家は、軍勢の数を誇りませぬ。多勢に無勢など、忍びの術で覆せるといまだに考えている」
「鈎の陣か」
信長は眉をひそめる。
言うまでもなくそれは、少数の甲賀忍びが将軍本人を急襲することで征伐軍を退けた、まさに物量差を覆す、神業のようないくさである。
「御意に。彼らの得手は奇襲、暗殺にござる。この手は連中の手口さえ抑えていればいくらでも防ぎようのあるもの」
この点は信長も注意を払っていた。森可成に忍び働きをさせていた信長だったが、選り抜きに『饗談』と称する忍び組を、寝所にも酒席にも侍らせて抜かりなく、身を守っている。さすが承禎とは言え、容易に信長暗殺に踏み切れるわけはない。
「暗殺の件は重々承知の上だでや。…で、長政、残る一つは何かや」
「六角家の本拠にござる」
と、長政は簡潔に答えた。
「かの観音寺城こそ難攻不落の堅城」
観音寺城。
琵琶湖の南岸の山容に無数の曲輪を持つこの中世城郭こそ、六角氏の誇る、侵攻不能の本拠地であった。




