第十五話 敵は身中にあり
「だから特別に計らうと言ったのに」
長政はにやにやしている。もちろん、市が埋火の服まで借りて、小谷城外へ出ようとしていたことを、ほのめかしている。
「ふん、なんと言う格好をしとりゃあすか。久方ぶりに逢う兄の前へ出る格好にてあるみゃあ。ちっとは精進せえ。…そもそもおのれめは、人の嫁になってもうさこくて暑苦しくてかなわんでや」
信長は苦笑しながら、椀の白玉をすすった。小言を喰らってしまったが、久しぶりに直接顔を見て話せた感動の方が大きかった。市は思わず、胸が熱くなってしまった。
会うのは半年ぶりくらいだが、もっと長く感じた。岐阜の繁栄と信長の躍進を聞くたびに市は胸踊ると同時に、また、兄の存在が一歩遠のいていくような、そんな気がしていたのだ。
「おのれらには、水入らずで会いたかったゆえ、真似させてもろうたでや。ちょうどこうしておのれら二人、夫婦になる前、この信長に会いに来たようにな」
「義兄上には格別のお計らい、感謝致しまする」
と、長政はさかさず、礼を述べる。
「それにしても此度の六角承禎処分の案件、さすがに妻を佐和山に連れていくような顔ぶれにならず」
「承知しておるでや。軍議物々しき席に、婚礼後の両家顔合わせは和やかとはいくまい」
信長は二人に座を進めると、同じ木椀の白玉を取り寄せた。井戸で冷やしでもしてあったのか、椀自体がひんやりとしていて、甘酢の香りもきつくない。甘酢につかった白玉は新しい雪のようだ。
信長の心尽しである。長政の馳走への返礼もあるのだろう。市は遠慮なく、信長の端に座ると、木匙で白玉をすくって口に含んだ。
「兄上、美味しい…!」
この暑い日中に偲んできて最高のご馳走だ。予想外の信長の心遣いに市は思わず、情けない顔になってしまった。
「ふん、いちいち騒ぐような食い物でもあるみゃあ。このうつけめ」
いちいち、妹を叱りつける兄だったが、その口調からは天下を狙う大名の威厳が抜けている。
思えば信長を頭に、長政、市とがひと並びに座っているのだ。席次や礼式がやかましい城内では、当然この集まりは実現しない。
林を通り抜ける風に、無花果が時折かすかに葉末を揺らす。それ以外は何の音もしない。麗らかすぎる夏の日盛りだ。
「なるほど。こやつめは落ち度なくやっておるようだわ」
「影に日向にと支えてくれまする」
市の方を意味ありげにみてから平然と、長政は答えた。
市は思わずその目を逸らした。あの賤ヶ岳の一件、まさか信長の耳に入っている、などと言うことはないだろうか。
「で、あるか」
しかしそれを聞いて、信長は満足げに笑っただけであった。
「こやつは当家から嫁に出したものゆえ婿どのが文句なしと言うならばそれでええだわ」
「そのお言葉こそ、ありがたき幸せ。市はこの長政にも度々、決断の糸口を与えてくれますゆえ」
「承禎の処分か」
話が政治向きの内容に飛び、信長は瞳を鋭く細めた。
「かねて六角義賢は曲者と評判の男」
と、長政はあえて承禎の俗名を使って、言った。
「家督を譲って引退してからは、むしろさらなる変幻自在。先だっての将軍御動座の折りも、夜半、賤ヶ岳に物見に現れたともっぱらの噂でござる」
「しっ、賤ヶ岳!」
「ほう」
信長は話に夢中で市の目が泳いでいることを気にかけていない。
「して長政の案のうちでは承禎めは斬るか、逐うか?」
問われて長政は内心の血気を見透かされぬためか、薄く微笑んだ。
「いずれを採るにしても、やりようがありましょう。…業師は業を尽くし出させてから仕留めるが得策かと」
「なるほど。…では承禎はじめ六角家にはどのように対するか」
「まずは、上洛の水先案内を乞うことです。そもそも、承禎自身も将軍を都へ戻すことには反対ではない立場。本来はこの長政同様、幕府再興を目指して信長どのと手をとるのが筋合の道」
信長は、小気味良くうなずいた。
「理屈は通る。…されど、上手くいくかや」
「上手くいかなくても良いのです」
きっぱりと、長政は断言した。
「それで向こうは、手管を弄する余裕を得たと思い上がるでしょう」
「こちらは、それに構わず化け狸めの尻尾を掴んで退治してしまう、と言う寸法か」
「御意に。さすがは信長どのです」
「市よ。婿どのが傑物で良かったでかんわ」
信長の機嫌はそれで斜めならぬものになった。
「して、そうなってめでたく承禎を討ち取る段とあいなれば、先手は浅井家に任せて良いな?」
「それは申すまでもなく」
長政は、即答した。
「その答えを聞けて何より安堵した。上洛の水先案内は任せしぞ」
裾前を払うと、信長は立ち上がった。
「…兄上、もう行かれるので?」
気の早い兄に、市は思わず尋ねた。
「当たり前だでや。もう、すべきことはした。時が惜しいでかんわ」
信長はからからと笑うと、市の頭を撫でた。
「兄上…」
思わぬ信長の行動に市は、目を丸くした。信長は、目を細めて微笑んでいる。
「かのように、ただ年の離れた妹として扱うはこれで終わりやも知れぬゆえな」
父親代わり。これまでの市の人生で、信長はまさに、そんな存在だった。信長にとっても心から、そうだったのだろう。
「後は子だでや。さすがに子でも産めば、おのれめも人の奥方に相応しき女性になろうがや。もはや、長政と励んでおらぬとは言うまい?」
「あっ、兄上!こんなところで何を申されるか!?」
市は顔に血を上らせて、叫んだ。そう言えば熱くなるほど、顔に血が上ったのは、久方ぶりだったような気がした。
「達者でやれ、両人」
信長は夫婦に言い残すと、さっさと引き上げて行った。
その後、佐和山城で信長と長政は会見した。ここで打ち合わせた通り、六角承禎征伐は、まずは融和策を採ることで見解を一致した。融和策を採ることは、承禎の出方をうかがう以外にも理由がある。
事前に信長に本音を話しておいたことは、長政の政略的計算も含まれていた。無論、浅井家中のことである。
強硬な征伐路線を推し進めなかったのは、いまだ六角家の駆逐に反対派がいる家中を宥めるために他ならない。
会談後、信長は柏原菩提院に宿泊し、浅井家重臣たちと酒宴を張った。
事件はその夜、未明近くにすでに起きていた。
「…新九郎さま」
小谷に戻った長政の閨に、現れたものがいる。中で眠っている市をおいて蚊帳を払った長政は、そのただならぬ様子に表情を固くした。そこには、胴具足のみを身につけた遠藤喜右衛門が侍っている。
「かような刻限に何用か」
と言う長政に遠藤は、はばからず答えた。
「敵は菩提院にあり。…信長を討ち取るは今が好機にござる」




