第十四話 思わぬ出逢い
佐和山城のある犬上郡は古くから、交通の要として知られた宿場町だ。それと言うのも、ここは東国の入り口である関ヶ原に面しているのである。東西を往来する人々にとっては、出入り口の宿であった。
「…で?お市さまは馬商人の令嬢にでも化け申すのか」
火偸は呆れ顔で言った。お市はまだ、佐和山に行くことを諦めていないのである。
「長政どのと兄上の一大事なのだわッ!」
「一大事と言われまするが、市さまはそこで何が起こるかご存じなので?」
じとっとした目で火偸は、市を見返す。
「それは…」
「分かりませぬでしょう。何か情報を得たわけでもなし」
「さっ、されど!急きょ予定が変わったのは何かおかしいだわ!」
市が怪しんで言うのは、その急な予定変更を知らせた人物が人物だからである。
「あの、遠藤と言う家老のことでござるか…」
「そうだでや!知っておろう!あの男が輿入れの初夜に、何を仕組んだのかは!?」
その事は確かに、火偸も忘れていない。あれは長政と市の寝所へ賊が入り込もうとして、成敗された事件になっているが、犯人は危うく織田家の関係者だと言うことになるところだったのだ。
このときも裏で糸を引いていたのは、遠藤だと、長政は看破いている。この男の織田家に対する反感は、生半可なものではない。織田家として、放っておくわけにはいかない。
「いや、落ち着きなされませ、お市さま。そもそもその遠藤なるが、信長さまを快く思わぬのは否めぬとしてもその害意を示す具体的な証拠があるわけではありますまい!」
「それは…!」
抗弁しかけて、お市は口ぶりを鈍らせた。
「長政どのが、間違いないと言っていたではないか…」
「されど、証拠はありますまい。さればこそ、長政さまも直接の追及あたわぬのではありますまいか!?」
火偸の指摘は、あくまで正しい。だからこそ、長政は浅井家重代の家老である遠藤を追及しきれないのである。
(だが、証拠がないと言うなら、それを探せばよい話だわ…!)
市は思ったが、その言葉を口にすることはためらった。火偸は今回ばかりは説得されないだろう。こうなったら、誰も頼ることは出来ないと、市は密かに思い極めた。
さて件の遠藤喜右衛門だが、奥向きにいる市は、ほとんど接触する機会はない。小谷城に屋敷曲輪も構えてはいるが、その動向は、長政の正妻と言えど、全く窺えない、と言っていい。
(やはり屋敷外に出るしかにゃあか…!)
ここはお忍びで佐和山まで駆けるしかない。が、困ったことがある。市は前科持ちなのである。
帰蝶の一件で、市の外出は固く禁じられているし、火偸たちの監視の目も厳しい。どうにかして、城を出るしか情報を得る手段はないのだ。
(こうなれば埋火の格好をして、外へ出るしかにゃあで…)
物売りの格好をして、埋火はよく外へ出ている。変装用の荷物なども、確かあったはずである。これを載せて運搬用に偽装すれば、自分の乗馬も無理なく連れ出せるはずだ。首尾よく支度を整えて、お市が頬被りで顔を隠したまま、城外へ出ようとしたときだ。
「待て、そこの物売り。…その馬は、御城の馬ではないか」
(露見れた…!)
市は口から心臓が飛び出るかと思った。上手くやったと思ったのに、一瞬で見破られたらである。門番が寄ってくれば、いい騒ぎになる。
その前に市が身分を明かせばまだ、戯れですむだろう。市はため息をついて心を決めると、声を潜めて頭巾をとった。
「…ほっ、ほんの出来心だでや。長政さまにはどうか!許したってちょ…!」
あわてて言い募ったが、相手方は怒鳴り返してこない。どころかクスクス、笑っている。市は振り返ってみて、自分がいやになった。変装した市を見咎めたのは、長政だったのだ。
「お市、そのような装束でどこへ行くの」
「いや、これはそのう…」
埋火が洗いざらした質素な野良着の市はなぜか、顔を手のひらで隠した。長政にも外出は止められている。さすがに怒られると思った。だが、
「まあ、ちょうどいい格好ではあるか。…市、ちょっとそのまま着いてきてくれるかな」
長政は市をそのまま、連れていこうとする。格好が格好だけに、市は尻込みした。
「いや!長政どの…しばし!せめて着替えを…」
と、市は言い募ったが、聞き届けられる様子もない。そして連れてこられたのは、厩の前であった。
「気散じに、遠乗りに出る!」
長政は番人に、市のような口調で言った。
「供連れはこの馬丁に任せるゆえ、あとは善きに計らえ」
長政の有無を言わせぬ口調であった。供連れの馬取りに指名されたのは無論、市である。
(城外に出れた…?)
市はほっとするより、呆然としてしまっている。何故それを固く禁じていた長政が自ら、市を外へ連れ出したのか。
「ここら辺でいいだろう。…後ろに乗って」
小谷を出たあと、街道沿いのひときわ大きな桑の木の葉陰に入ると、長政は言った。せわしなく蝉が鳴き、夏の太陽がこぼれ落ちそうな昼下がりである。
「は、はあ…」
あまり事情を介せぬままに、馬小屋の下人のふりをやめ、市は馬上の長政の背にしがみついた。
「もう少しの辛抱だよ」
「…?」
気になる一言を口にし、長政の馬は琵琶湖畔を奔った。
「どこへ行くので?」
ずっと左手に琵琶湖が見える。故に、長政は東岸を北上していると言うのは、何となく分かるが。
真夏の強い日を受けて、長政は馬首を巡らせた。ふと見ると、質素な板葺きの茶屋がある。
無花果の広い葉陰があるところに、腰かけが置かれていて、そこで青い帷子を着た武士が涼をとっていた。木椀の中には、つややかな白玉が浮いている。浸っているのは冷たい甘酢である。この時代、白玉と言えば甘酢で食するのが、夏の楽しみであった。
「殿方に嫁そうと、相変わらずだわ」
武士はすぐに、変装しているお市を見破ったようだ。見慣れた茶筅髷である。しかもいくら暑いとは言え、無遠慮に毛脛を放り出して、白玉を頬張っている、その姿を、市が見忘れようはずがない。
「なんと言う格好しとりゃあす、お市」
「あっ、兄上!…なぜ!?」
たった一人、そこで待っていたのは、兄の織田信長本人であった。




