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花繚(かりょう)の動乱  作者: 橋本ちかげ
第3章 花は嵐のさなか
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第十話 くすぶる禍

 人を射たのは、実はこれが生まれて初めてだった。

 (やじり)が突き立ったときの重々しく籠った音が、そのまま感触となって弦を握った左手に居残っている。その二の腕から肩までが、これまでの人生で一番強ばりきっているのに、お市は今さら気づいた。


「織田のじゃじゃ馬めか」


 (カッ)(カッ)と、(ひづめ)を高鳴らせ龍興は、乗馬ごとこちらへ向き直った。


「長政めは、せっかくもらった嫁御を大事にはせぬらしいな」

「…余計なお世話だわッ…!」


 市は、詰まった声音で言い返した。実はもっと、上手いことを切り返したかったのだが、これ以上の声が出そうにない。何しろ、相手は騎乗の鎧武者だ。


「もう一度、狙ってみろ」

 これ見よがしに矢を引き抜くと、龍興は、肩を回して見せた。

「生半可じゃあ、おれは仕留められんぞ。次は、どこに当たろうが、必ずその素っ首叩き落としてやるから覚悟しろ。…いくさ場じゃあこの程度の弓で射られて、怯むような腰抜けはいねえんだよ」

 龍興は、馬を逸らせた。棹立ちになった栗毛が、突っ込んでくる。市にとってそれは予想外の速度と迫力だった。


 すでに第二矢は無意識ながらつがえているものの、もはや当てられると言う自信は残っていない。いやよしんば、中途半端にどこかに命中したとて、この騎兵の勢いを留められるものか。龍興自ら宣じたように、あえなく首を打ち飛ばされてしまうのではないか。


「わあああッ!」


 それでも無我夢中で、矢は放っていた。だが、手から矢が離れたと言う記憶すらない。抜刀した龍興を乗せた馬は、瞬く間に飛びすがっていった。


(無事…生きてる?)


 自分で挑んでいて市は、無謀からの生還に胸を撫で下ろした。だが、何も代償を払わなかったわけではない。上がった砂埃の中から、はらりと頬にかかってきたのは、自らの後ろ髪であった。


 そして、それだけなら良かった。今の一合でなんと、手の中の半弓が壊れていたのだ。つるが切り飛ばされ、どこかへ飛び散ってしまった。まるで短い(べん)のようになってしまった、この役立たずの弦では、もはや丸腰同然である。


「見逃さんぞ」

 こちらを向いた龍興は、歯を剥き出すと、まだ生きている市に凄みのある笑みを見せつけた。

「女首とは言え、あの信長の妹だ。ここは、仕留めずに帰れねえよなあ」

「くッ」

 市は身体を探ったが、武器はもはや懐にしまってある守り刀しかない。帰蝶にもらった短刀だが、お守り程度のもので無論、武器としてはたかが知れている。

「死ねッ!」

 龍興は刀を振り上げた。市はあわてて、短刀の鞘を払ったものの、勝てる気がしない。

(すまぬ、長政どの…!)

 ここで終わりか。そう思ったときだ。


「龍興ィィィィッ!」


 引き裂くような甲高い怒号が、轟き渡った。馬上の龍興に、横から飛びかかったのは、なんと帰蝶である。驚くより市は唖然としてしまった。


 不意を打たれた龍興は、落馬した。その上に、殺気を漲らせた帰蝶がのしかかる。いくさ慣れした武者であろうともそれは、軽くなどあしらえぬ剣幕であった。


「死ね」

 帰蝶が逆手に握っているのは、短刀である。市にくれたものと同じ意匠なので、元々一対あるものの片割れなのだろうが、まさかあれ一本で騎馬武者を引き倒すとは。色んな意味で人間離れしているとしか言いようがない。


「怖っ…」

 市はみるみる、自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。命を救ってもらって何だが、とにかく今は帰蝶を敵にまわす立場でなくて良かったと思っている。


「死ねッ!死ね死ね死ね死ね死ねえェェェッ!」

 龍興の頭上から、帰蝶は無茶苦茶に短刀を突き刺してくる。兜の前立てが吹き飛び、籠手もずたずたに切り苛まれた。それでも辛うじて首を掻かれることからは免れているが、大の男の腕力を持ってしても、押し退けられるものではない。

「退けッ!くそおッ!この女ッ…!」

 龍興も余裕を失い、血相を変え出した。

「死ね」

 帰蝶の形相は、何かが取り憑いたように一変している。蝮と言われた亡父が憑いたのか、いやそれ以上に帰蝶がその美しい風貌の中に生まれ持った、もっと禍々しい何かが、現世(うつしよ)に姿を顕した、と言うのが正しい。このままいけば龍興は、蝮の牙に喉を喰い破られていたに違いない。


 しかしそれでも、悪運はこの仇敵の身に落ちたのである。


 砂埃の中から影のように沸き上がった何者かが、龍興の腹の上の帰蝶を蹴ったのである。どこかに雲隠れしていた承禎だった。


「阿呆、おのれはわしを助けに来たと違うんかい」

 承禎は、心底あきれたように言うと、龍興を引き上げた。帰蝶に予想外の負傷させられた龍興は、逆上している。

「あの女ッ!切り刻んでやるッ!」

「やめえ。…潮時逃すな」

 すっかり、興が覚めた口調で承禎は吐き捨てると、龍興が放した馬の轡を引いてくる。


(逃げられる…!)

 市は制止しようかと思ったが、声が出ない。もはや、あの二人に太刀打ちする術はないからだ。


「織田の妹姫(いもひめ)よ。あの蝮めを早う介抱してやり。今宵は、ここまでや」


 承禎の声が降った。一瞬、市は耳を疑ったが、承禎にすでに害意はないらしい。


「まっ…待たぬかッ!」

 市は声を振り絞ったが、その恐怖を承禎には見透かされている。

「終わりと言ったやろう。わしやこの龍興坊の気の変わらんうち、引き上げるがええ」

 何もかも、承禎の言う通りだった。

「最後に言うておく。わしは、織田殿のすることには反対せん。そうしなければ公方は死に、新たな公方を探さねばならなくなるからな」

 人を喰った発言である。室町公方は、所詮、据えもの。それを実感している近江の武家ならではの、冷めきった本音なのかも知れないが、あまり、露骨すぎる。

「しかし、浅井新九郎には無惨なことになるやも知れんなあ。あんたも不幸な家に嫁いだものや。小谷の館に帰ったら、気をつけい。旦那にもよう言うておくことや」

「長政どのに何かしたのか…!?」

 市は思わず声を強ばらせた。

「わしはようせん。…だがこれ以上は言えんなあ」

 謎めいた言葉を残すと承禎は、遠ざかっていく。

(長政どのに何が…?)

 茫然とその姿を見送りながら市は、胸のなかに灯った長政を案ずる不安を持て余していた。






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