第五話 信長の秘密
市は瓜売りの娘の布巾をとって、髪を下ろさせた。
「ここなら安全であろう」
今いるのは、これから拓けつつある小牧の城下町である。気に早い信長らしく街の骨格がうっすらと出来上がっていた。信長は山の南側を大手門として、そこに目抜き通りを設ける予定らしい。作事場の客目当てか、馬をつなげる茶屋がすでに店を開いていた。
埋火は髪を下ろされて、一瞬、嫌そうな顔をした。
市はこの娘の、意外に豊かに潤った黒髪と素顔が好きだったからそうしたのだが、当の本人は素顔をさらすことをあまり好まないのだった。
(この娘は、おのれの面貌を、必要以上に毛嫌いしておるのだ)
市は、たまにやるせない気分になる。
だが確かにそれと言うのも、無理はない。特殊な化粧で上手く隠しているが、この娘の目元から鼻柱の根の辺りにかけては大きく真横に、蝶が翅を拡げたような赤いあざがついているのだ。
「少しは恩に着たらどうなのだわ。…市が割って入らねば、お前はどうなっていたか分からなかったのだぞ?」
「すっ、すみません」
市にたしなめられて埋火はそこで初めて、素の嫌悪の表情をあわててかき消した。
そしてせっかく綺麗に結い上げた髪を、わさわさと乱す。そうやっていつも埋火は前髪の中にその眼差しを隠すのだ。
そう言えば、出会ったときからそうであった。このくのいちの娘は、このようにしてからでないと、市とまともに会話も出来ないのだった。
「で?…兄上が小牧山城のあらましは。お前はこのことを、稲葉山が斎藤家にでも密告でもするのつもりではなかろうのん?」
「そんなッ滅相も…滅相もないことでッ!」
声を詰まらせて、埋火は弁解した。
無論、市には分かっている。例えばある諜報が、清州の帰蝶姫を通じて美濃に伝わろうとも、結局得になることは何一つないと言うことを。
だがいじらしい埋火をみると、市には少しいたずら心が湧く。
「さて帰蝶殿が指金となると…あとの魂胆はなにかや。探り出せと言われたのは何か。兄上の弱みか?」
「おっ、御赦しをッ!その儀ばかりは、平にご容赦をッ!」
悲痛に顔を歪め埋火は、泣き声を上げる。実際、涙をこぼしている。哀れにはなったが、乗り掛かった舟である。生半可なことで退けるわけがない。
「濃姫さまから内々のご命令です。…仔細はこの火偸が承り申した」
すると、ついに妹想いの火偸が白状した。苦虫をかみつぶしたような顔である。
「されどくれぐれも信じて頂きたくは、美濃の斎藤家からの指金ではないと言うこと。…これには濃姫さまご自身の深きお悩みより端を発してござる」
苦しそうに火偸が言うのは、いわゆる信長の醜聞である。
「どう言うことじゃ」
「お市さまは、あまりご存じではないのかも知れませぬが」
正室の帰蝶を差し置いて、信長には寵愛を預ける妾がいたのだ。
その付き合いは、婚礼によって帰蝶が濃姫となるよりも長く、愛情はより深いものであった。
「それは何者か」
市の問いに、火偸は居心地悪そうに瞳をめぐらせた。
「…姫御がおわす清洲の城より北の小折村に、生駒と言う屋敷があるをご存じでござりまするか」
「知らん」
お市が言い切ると、火偸は少し、気の抜けたような顔をした。ほっとしたのだろう。しかし、お市の方は、やたらと記憶がいい。
「…いや、待て。生駒が名は、聞いたことがあるだわ。確か、母上が生家が…そのような氏だった気がする」
「さすがはご明察」
あまりの勘の切れに、火偸はほとんど呆れたようだ。
信長たちの生母である土田御前は、生駒家の血を引いている。名の知れた商家である。この生駒は元は大和(奈良県)の国の出で、代々馬借(運送業)を営んで身代を大きくしたと言われる。
「して、兄上の相手はそこの姫君か何かか」
「名は類、とか。しかも寡婦にござりますれば」
いわゆる出戻りである。一度、武家に嫁したが亭主の討ち死にで実家に帰ったと言うのだ。となると、かなりの年増なのか、と市は思った。
何しろ信長との付き合いは、帰蝶が輿入れする以前からなのだ。その類、と言う娘を信長は惚れぬき、吉乃と、名前まで変えさせては、多年この生駒屋敷に入り浸っている。そもそも愛妾の名に吉、の一字が入るあたり、吉法師と信長が名乗っていた頃からの付き合いと思って間違いない。
「なんと深き縁じゃ」
さすがの市も眼を丸くした。
「まるで知らなんだ。…して、兄上はそのお方をずっと、帰蝶さまにお引き合わせなとしておらぬのか」
火偸は頷いた。複雑すぎる内情である。
「恐らく…これまでご紹介がないのは…信長さまはより、深い…契りを、その吉乃さまと言う方とかわしておいでなのでしょう、と、帰蝶さまはお嘆きです」
と、哀しそうに言ったのは、埋火だ。二人が調べたところによると、すでに信長とその吉乃の間には、少なくとも三人は子がいると言う。対し本妻の帰蝶はいまだ、一人も授かっていない。正室として立場がないと思うのも、当然の仕儀である。
「だっ、だがその吉乃と言う女はあくまで側妾であろう!?」
家格や政治的事情から言っても、斎藤道三の遺児である帰蝶の存在は重い。彼女が正室であるからこそ、信長は道三の正統後継者として、斎藤家へ美濃攻めを挑むことが出来るのである。
「ご明察。間違ってはおりませぬが」
火偸はお市をほめたが、暗い表情をした。
「それが今、少し雲行きが怪しゅうなってきたのです」
新造の小牧山城には、御台所御殿の縄張がなされている。だがどうもそれが、正室の帰蝶のためのものではない、と言うのがもっぱらの噂なのだ。
「この御新造を期に、正式になされるつもりなのでしょう。…これまで伏せてきましたが、誰が信長公の真の御正室なのかを明らかにされる、と」
吉乃の子の中に、嫡男がいる。この奇妙丸と言う妙な名前の男の子に、信長が正統の後継権を与えれば、吉乃の立場は帰蝶に取り替わるであろう。
「そうなれば!…それは御家の大事ではないかっ」
お市が興奮するのも、無理はない。奥の女たちの争いは、内乱の大きな火種である。下手をすれば、このまま、織田家を二つに割る争いになりかねない。
「埋火。お前は、それを調べていたのだね。…帰蝶さまにはなんと、申し上げるつもりだったの?」
お市は、なるべく優しい声を作って聞いた。自分の追及の鋭さが、この繊細な問題では埋火を悩ませ傷つけるかも知れないと言うことを、すでに知っている。そうでなくても埋火は、言葉を詰まらせるに違いない。
「…分かりませぬ。今はもう。ありのままを伝えてよいものか…」
埋火が出した答えは、調査の結果がまさに、恐れていた通りだったと言うことを示している。
(兄上は、帰蝶さまをむげになさるおつもりなのか…)
同じ女として市は、埋火の、そして帰蝶の苦悩が分かる。御台所をすげ替える、と言うことは、信長の本心の部分である。政治向きにはまだ、帰蝶は必要かもしれないが、正室として愛しているのは、吉乃である、と本音を露わにするようなものだ。同じ女として市ですら、それはあまりにむごい仕打ちと思う。
「埋火よ、この件は預かる」
軋むような声で、市はやっとそれを口にした。今はそうするより他ない。
「兄上にはこの市が、ご意見を仕る。火偸、お前にも異存はないな?」
「ご随意に」
短く、火偸は答えた。この男も、帰蝶にありのままを伝えるべく調査を進めていたのだろうが、この場合、真実はただの毒にしかならない。そのことを、すでに悟ってはいる。