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花繚(かりょう)の動乱  作者: 橋本ちかげ
第3章 花は嵐のさなか
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第六話 悪党承禎

 それは蒸し暑い晩だった。湿っぽい風が声高に、吹き荒れていた。足の速い雲が、何かに引きちぎられるように流れていく。昼間の陽の代わりかと思うような明るい月が灯っていた。


 欠け足の赤兵衛の忍び宿は、さざ波のように穏やかな酒宴から始まった。帰蝶が手回しした馳走と酒が効いている。もちろんそれでもそう簡単には誰もが、心を開くわけでもなさそうだが、現れた者どもは波風を立てるような真似はせず、静かに呑んでいる。


「ほほう。あれか、甲賀の忍びどもと言うのは…?」

 火偸と物陰にいて、市は初めてみる甲賀忍びたちの風体を確かめる。

「…これこれ、声も頭も高うござりまするぞ」

 火偸は冷ややかに言うと、市の頭を抑えつける。

「なっ無礼ではにゃあか。いきなり何をする」

「集まるのはただでさえ、気配に敏感な連中だと言うことをお忘れか?」

 火偸は、物憂げにあごをしゃくる。

「見つかれば、帰蝶さまの目論見も、何もかもこれまでなのですぞ。…お市さまはともかく、大人しくなさいませ」

「わっ、分かっておる」

 市は、唇を尖らせて言う。ここはすでに、市が知ることのなかった闇の社会なのである。この中で市のような人間がただでさえ、違和感を誘う人間だと言う空気は、言われずとも察してはいるつもりなのである。


 忍びどもは猫のようだと、市は思った。

 高いところからぽとりと落ちてくるようにいきなり現れ、こちらが近づけば退き、目を離せば突然、ごく近くに擦り寄ってきそうな雰囲気である。


 なるほど者どもをみれば、武士の姿をしているものから、僧俗や歩き巫女もいたし、物売りやどこぞの屋敷で下働きに使われているような雑人体のものまで思い思いである。


「赤兵衛よ、どうなっておる。今宵は馬鹿に、威勢が良いではないか。牢破りしたと聞いてはいたが、ついでに浅井家の銭まで持って逃げたのか」


 やがて誰ともなく、声が上がった。戯れるような口調である。赤兵衛は座を和ますように大声で笑い、


「違うわい阿呆。んな危ない真似しとったら、こんなところにお前ら呑気に呼ぶかい」

「だったらなぜ、かような大盤振る舞いをするんや」

 別の声が聞いた。

「ま、露払いみたいなものや。…ええ雇い主を見つけたさかいのう」

 赤兵衛が、帰蝶を紹介する。

「美濃の蝶火(ちょうび)と申します。…この欠け足の赤兵衛どのは、湖北随一の馬盗みの達人と聞きました。ぜひ美濃でひと働きして欲しくて、声をかけたのです」

 並み居る悪党たちを前にして、帰蝶は淀みなく、用意した嘘を並べ立てる。

「美濃でひと働き?…なんや、織田の城下で何かやらかすんかい」

「ああ、そうや。織田弾正忠は、来る京都上洛のためか、もう大分前から、たいそう兵馬を集めとる言う話やらからのう」

「でも、大丈夫なのかえ。織田の追捕(ついぶ)は特に厳しいと聞くよ。下手したら、一味皆殺しになるんやないの」

 女の低い声が立った。この女は普段、春でも商っているのか、帰蝶に劣らず、きらびやかな着物を召していた。

「大丈夫や。おれが言うのもなんやがこれは固い仕事なんや。…すぐに金になる算段もついておるし、金を分けたあとはこの近江でちりぢりになってまえば、だれも追うことは出来ん」

「ほんまかい」

「人さえ殺めねばの話やで」

「なんや、殺しはなしか」


「なんと剣呑な…」

 密かに市は息を呑んだ。


 誰も聞いていないと思って、連中、ひどく大っぴらに話している。それにしても話が物騒だ。赤兵衛の顔見知りばかりが集まるし、危険はないと聞いてはいたものの、これは伏せて聞き耳を立てているのが見つかったら、とんでもないことになるのではないか。


「どうやら今のところ、承禎は現れぬ様子」

 そのとき、声を押し殺して火偸が言った。

「承禎?」

 市は初めてそれに気づいたと言うように、眉をひそめる。

「お忘れか。我らの目当ては、野良忍びどもの物騒な話の立ち聞きではござらぬぞ」

 この忍び宿の目的は、密かに現れるかも知れない六角承禎を釣るためなのである。

「わっ、分かっておるでやそんなことわ初めから!」

 市はまくしたてると、一気に血の気がのぼった頬を膨らませた。

「だがそもそもよく分からぬ話だでや。赤兵衛が何者かは知らぬが、所詮は下働きの忍び者あがりであろう。六角家の当主などそう簡単に現れるものなのか」

「『前』当主でござる。お間違えなく」

 すかさず訂正すると、火偸は嘆息した。

「赤兵衛は、承禎を直接、裏切っており申す。いくさの邪魔をする馬盗みになったは、元の甲賀仲間への腹いせであるそうな」

「なんじゃと」

 火偸はあのあと赤兵衛から直接、真相を聞いたようである。

「承禎にも面目があるゆえ、抜けものの始末に立ち会わぬと言うことはありますまい。あまつさえ、やるなら直接手を下すだろうと言うのが、帰蝶さまの読みだそうです」

「なるほど」

 なぜか、帰蝶が言うと、納得である。

「…だが、となると帰蝶さまはこの上なく、今、危険なのではないか?」

 市が尋ねると、答えるまでもないと言うように火偸は眉をひそめた。

「故に、我らの役目は重大なのです」

 市と火偸は伏せり役だが、いざと言うときは騒ぎを起こして帰蝶と赤兵衛たちを逃がす重役を担っているのである。

「承禎は玄人。…我ら何があっても帰蝶さまの身に万一のことがあっては、なりませぬ」

「で、あるか」

 市は、息苦しくなった。急に緊張感が増してきた。自分も人のことは言えないが、帰蝶は身分もわきまえず、なんて無謀なことをするのだろう。


「さて、仕事に乗ると言うものはこちらへお並びを」

 帰蝶は埋火たちに、あらかじめ運ばせておいた二俵の大俵を開かせた。中には目もくらむような黄金がつまっている。

「どうぞ一掴みずつ。これは前金です」


「怪しいのう。お膳立てが過ぎるで。馬泥棒て、織田家にあだなすどこのお家の指金じゃ」

 薄汚い墨染めを着た初老の放下僧が、賤しそうに唇を尖らせる。

「そいつは聞きっこなしやで。その代わりの前金じゃ。…これから一昼夜には駆けて、岐阜についてもらう。今、行ける、と言う者だけ金をとれ」

 赤兵衛が決断を迫った。それで、一座に火が消えたような沈黙が落ちたが、それも数瞬のことだった。

「ええで。わしは乗る。岐阜はここよりゃ羽振りがええやろ」

 と、言ったのは、今、文句を言った放下僧だった。

「金をくれ。わしは仲間を集めるゆえ、一人頭ずつ先にもらうぞ」

「ええぞ、願人。それでこそわしの古馴染みや。好きなだけ持っていけ」

「ああ、もろうた」

 大盤振る舞いの赤兵衛の肩を叩いて、願人と言われた僧は、埋火が差し出す金の俵に手を入れる。強欲な男である。仲間を募ると言うが、一人で何人分せしめる気なのだろう。


「お待ちなさい」

 そのときだ。帰蝶がふと、その放下僧を呼び止めた。やはりその阿漕を窘めるのだろう。市がそう思ってみていると、

「あなたは願人坊、金渓(きんけい)ではありませんね。嘘をついても分かります」

 金渓と名を呼ばれた僧は怪訝そうに帰蝶を睨みつけると、腹立たしそうにため息をついた。そして背越しに赤兵衛に向かい、

「んな阿呆な。赤兵衛、何とか言うてくれ」

「金渓は死にました。まださらされてはおりませんが、昨日、小谷城で首を打たれましたので」

「おのれっ」

 叫びかかった赤兵衛に向かって、僧は墨染めの袖を閃かせた。指に小さな刃物がにぎられている。赤兵衛の肩の付け根が切り裂かれて、音を立てて噴き上がるほどの血が飛び散った。


「何をするのですッ!」

 埋火たちが色めき立った。帰蝶は顔色ひとつ変えず、動かない。血と脂で汚れた刃物を挟んだ僧は、その様子を悠々と眺めていた。

「何者ですかッ!?」

 誰何したのは、埋火である。だが、問うまでもないはずだ。僧は自分の頬で飛び散った血糊を手の甲で拭うと、声もなく笑った。

「嘘はついておらぬ」

 その言葉つきは、武家言葉に戻っている。まさかこの男が承禎か。

「古い馴染みには変わらんやろう。なあ、なんとか言うてくれ赤兵衛」

 赤兵衛は返事が出来ない。出血のせいもあるが、見破れなかった衝撃で咽喉が引き攣っているのだ。

「承禎どのですね?」

「ああ、そうや。お招きありがとう」

 帰蝶の言葉に、承禎は不気味に答えた。その口元には、冬の三日月のようにかすかで冷たい笑いが浮かんでいる。





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