第五話 賤ヶ岳のつどい
足利公方は、越前から余呉湖の畔を守られてやってくる。
浅井長政はそこで朝倉義景から、将軍義昭を引き受けるのだと言う。
この時代、余呉湖は閉鎖湖である。
大波の立ちにくい静かな湖面で、陽気のいい日には鏡のように凪いでいる。見渡しの佳さは、縁起担ぎの晴れがましさもあるが、ここで引き渡しを行う第一の理由は敵の接近に気づきやすく、軍勢を展開しやすい軍略上の地の利にあるのだろう。
そしてこの余呉湖を、琵琶湖と隔てているのが、賤ヶ岳であった。後年、市の命運を分けるいくさが起こることになるいわば因縁深い山だ。このときもここが将軍義昭と、それを引き渡す両軍の動きを一望のもとに見渡すのには非常に地の利がある、いわば天王山的存在と言える。
「もし承禎公が手札を隠すなら、この賤ヶ岳は、見逃すはずのない場所のはずです」
と、埋火は断言するように言う。なるほど、ここで因縁のある赤兵衛が忍び宿を催すと言うなら、それを知って承禎自身が顔を出す確率は、かなり高いはずである。
「しかし、派手な捕りものでも致しますのか」
火偸の眉間のしわは深い。何しろここは、岐阜や尾張ではないのだ。いざとなれば、責任が取れるようなものではない。あまり派手な騒ぎになってしまえば、まず迷惑が掛かるのは市の夫、長政なのである。
「いや、帰蝶さまもそこまで危うい真似はするまい」
足利公方の行路の無事は、誰あろう信長の望みなのである。お市同様、帰蝶こそ、夫の癇癪の種になるようなことはするまい。とは思うのだが。
「心配です。…帰蝶さまは万事心得ておられるお方ですが、龍興めのことになると、恐れながら平静を欠く…きらいがござりますゆえ」
「困ったものよ。咎人を使う策も、危うきにすぎるしな」
兄妹のため息の根は深い。ひとたび帰蝶の心配ごとを引っ張り出せば、それは普段の愚痴まで、芋づる式に出てきてしまう。
「元々、一人の姫でもわがままが手に余ると言うのに…」
「また眠れなくなりそう…」
「一人の姫?」
市は眉をひそめた。今、愚痴にかこつけて聞き捨てならないことを言われたのは、果たして気のせいだろうか。
「お前ら、今、誰のわがままが手に余ると申したか!?」
「ええっ!?いや!なんでもありませぬ!なあ、埋火」
「そっ、そうです。わたしたち、帰蝶さまが来られて迷惑だなんて言ってません…」
「…言っておるでわないか」
「い、いえ!その!何卒、今のはご内密に…」
二人はあわてて言い繕った。
「とにかく!お市さま、帰蝶さまとの件は、わたしたちで何とかします。長政さまにはぜひ、よしなに…」
「いや、お前たち困っておるではないか。…このまま、帰蝶さまのやりたいようにやらせるのが心配なのであろう?」
「それは…」
言い淀んで兄妹は顔を見合わせた。
「確かにそれはありますが、その件はあとは二人で…」
「遠慮は無用だでや。…うん、ここは、歯止め役がいるな。そうじゃ、この市も帰蝶さまに同道しようではないか!」
「え…!?」
急に決然とそんなことを言い出した市を火偸と埋火の兄妹は、信じられないものを見るような目で見た。
「賤ケ岳で催される忍び宿に行く?」
さすがに、長政はいい顔をしなかった。当然である。
「あれは帰蝶どのの用事と思ってござったが」
この件は長政も因縁の六角承禎が絡んでいるとは言え、帰蝶が自ら乗り出してきた時点で、彼女の案件なのである。
「しかし、浅井家にも関係があることでもありましょう?」
と言うと、長政は困った顔になった。閨のこととは言え、六角承禎の話をしたのは、失敗だったと思っているのだろう。結局、お市の好奇心を焚き付けてしまう結果になった。
「長政どの、何卒お聞き届けを。だって、ここは浅井家の領地でござりましょう。…されど帰蝶さまたちは他国の人間。その手下たる火偸たちも、帰蝶さまの旧臣としてその場に赴くのだわ…」
「浅井家の領内で起こることゆえ、浅井家の人間がたった一人でもいないと、都合が悪い、とでも言うおつもりか…?」
「さすがは、長政どの!」
市が満面の笑みで頷いたので、長政は、本当に重いため息をついた。屁理屈にも程がある。
だがその屁理屈を押し出してきたとき、織田信長の血縁から来たこの妻の、聞かぬ気のなさは、もう夫として理解はしているつもりなのである。
「これ以上、引き留めても行くのだろうね…?」
長政もついに諦めたようである。代わりに無謀な勇気が余りきっているお市の火照った首筋を抱き、耳元に接吻けるように気遣う言葉を吹き込んだ。
「では…何かある前に、必ず今宵の長政の顔を思い出すこと」
「お約束致しまする…」
市は、長政の広い肩を抱き締めた。もうすでに一人の命ではない。長政を悲しませるようなことだけは、したくなかった。
忍び宿とは、詰まるところ無法者たちの集いである。主持ちの忍びたちが身を守るための情報をかわすこともあるが、次の悪事の相談を持ちかけることも少なくない。
「良いですか、皆さん。…この欠け脚の赤兵衛は、小谷城を脱してきました。…次の目的は、この近江を無事に抜け、岐阜で厩戸を荒らすつもりでいます」
当の赤兵衛の隣で、帰蝶がすらすらと、説明した。ここは賤ヶ岳南東の山裾にある、棄てられた廃寺である。略奪を受けて、板戸すら持ち去られたあばら家を、帰蝶は適度に改装し、瞬く間に忍び宿を催す準備を整えた。
大きな甕に、たっぷりと濁った地酒を張り、柄杓で汲めるようにした。大鍋で煮込みを作ったり、干魚や煎り豆を盛ったり、肴も万全である。
夜風をしのげる庇で、悪党どもは朝になるまで酒宴を張るのだ。
(なるほど、これが忍び宿か…)
埋火とともに藪の中に隠れた市は、久々の刺激で興奮を隠しきれない。
「…お市さま、くれぐれも…いや、絶対見つからぬようにしてください…」
埋火は気が気でない様子である。
「火偸と妾は、この赤兵衛の依頼主です。…そうですね、甲斐の武田家にでも、所縁があるように匂わせておきます」
帰蝶の嘘は、淀みない。火偸と二人とも、着物を着崩してはいるが、身につけているものなど目立って裕福に見せ、武田家とつながりのある夜盗づれを装うらしい。
「赤兵衛の顔で人が集まります。最初は、赤兵衛の見知ったものが顔を出すでしょう」
悪党どもの夜宴が、始まる。市の胸は不埒にも高まった。




