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花繚(かりょう)の動乱  作者: 橋本ちかげ
第3章 花は嵐のさなか
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第二話 承禎

 浅井家の嫁となった市は、奥向きに籠っている。その日課は、人にものを尋ねることである。いわば耳学問であり、ことによると、たったそれだけで一日が終わってしまうこともある。


 例えばある日は、火偸や埋火が、浅井家の現状やら諸国の情勢やら、信長の動静やら尾張美濃の国情やらを話してくれる。そのときは好奇心が動き、いつまでも退屈しない。


 しかしそうでないときは、一日が長い。市にとって、わずらわしい、などとは口に出しては言えない、花嫁修行の続きなのである。


 浅井家で織田家の嫁として振る舞うのはどう言うことか。常にそれを求められるのが、嫁としての市の責務なのである。舵取りは織田家から意を含められている老女(おとな)が握っている。とにかく彼女(と、その取り巻き女房たち)の話をよく聞くよう、言い含められている。


 特に織田家から連れてきた尾張や美濃の女房衆と、元から城中にいる近江の女房衆たちとの間には、やはり越えられない溝がある。その角の突き合いのただ中に押し出されるのは嫌だが、織田家の嫁として退くわけにはいかない。


(女どもめ。同じ城内にいて、毎日よう争う種があるでや)

 同じ女ではあるものの、女たちの城中のあらましが、市にはよく分からない。


 清洲の城で生まれ育ったとは言え、そこに棲む女たちの輪にはあまり入ることはなかったからだ。ひとえに兄の真似をして弓馬の道にうつつを抜かしていた弊害である。


 だが、夜の支度さえ終わってしまえば、その気苦労も絶える。後は奥で長政が渡ってくるのを待つばかりである。


 長政は毎晩、決まった刻限にやってきた。律儀、と言うのも性格なのだろうが、もちろんそれだけではない。決まった時間に、市の髪や素肌に触れないともう、心が落ち着かないのだと言う。ある夜、それをふと耳打ちに囁かれて市は、思わず息を呑んだ。


「昼間はろくに、顔も合わせていないからね」

 床に入れば長政も力が抜けて、ようやく気のおけない話し方になった。

「ことに御家(おいえ)の看板でいるのは骨が折れる。…それは市も同じことだとは思うけど」


 白襦袢を羽織った市の、血のめぐりのいい身体を掻い寄せて長政は苦笑した。


 まだ春の名残を含んだ夜風が城中を冷え込ませていた。湯殿から上がって久しいのに、それでも市のしなやかな身体は桃色に染まって温もっている。その芳しい素肌は甘ったるい香気をゆだるように揺らめかせては、長政の総身の強ばりを和らがせる。


「市、しばらくこうしていても?」


 長い腕を市の背に廻したまま、長政がその言葉を口にすることが最近、多くなった。濡れ濡れと輝いて月明かりを映すような、市の垂髪に顔を埋めているのである。


 気を鎮めるのに長政が深い息を吐く間、市はきつく唇を引き締めると、しばらく目を閉じていた。こうした毎夜の触れ合いを嬉しくは思う反面、女性(おとな)になったばかりの市にとってはまだ、色濃い男女の関りは、少しばかり面映ゆいのだ。


「今日は何か気がかりごとがござりましたのか…?」

 長政の安寧(あんねい)を妨げては悪いと思ったが、察してしまったことは隠せない。気づくと市は降って湧いた直感をふと口にのぼらせていた。

「いや、これからのことにござる」

 長政は労をいとわず、市には素直に状況を話す。

「近々、公方様の御身をお引き受け致す」


 越前朝倉家を発った将軍、足利義昭が織田信長との会見を控えて、この近江を通る。市との婚姻によって、同盟関係にある長政としては会見の橋渡し役として、朝倉義景から無事、義昭の身柄を岐阜へ送り届ける役目を果たさねばならないのだった。


「朝倉家では二千の兵で公方様を守り立てるそうだ」


 当然、浅井家でも陣立てがいる。だが織田と同盟を結んだ今、朝倉家とは敵対関係に近く気は使わねばならない。両軍が一堂に会した席で何かがあれば、まさに一触即発の現場となるだろう。


「義景公は快く公方様を引き渡すつもりはにゃあので?」

「まずはそれはあるまい、とは思うが」

 と、言いつつも長政はやや、顔色を曇らせた。


 義景の気を殺がぬよう、義昭は一筆、感謝状を書いてのちのちも朝倉家を粗略にしないと、念を押している。かつて朝倉家に寄寓した明智光秀の抜け目ない知恵であった。


「なので朝倉家は、さしあたっての問題はござらぬ」

「では何が問題に?」

 と尋ねると、長政は表情を暗くした。

「…無用の横槍が気にかかるのだ」


 長政は布団に手をついて、身体を起こす。そのとき長い腕を強ばらせて、かすかに背を縮こませることがある。床を共にするようになってから、市にもそれがどうしてなのか、分かるようになっていた。


 長政の腕の付け根には、不穏なひきつりがあるのだ。


宇曽川(うそがわ)で撃たれた古傷だが、これが最後の一つ」

 長政は顔をしかめる。


 宇曽川とは、あの野良田合戦の主戦場である。軍勢はその川を挟んで争った。その頃、長政は十代だった。激戦であったが故に、他にもいくつか古傷があったはずだが、若い盛りのことだけにそのほとんどは消えてしまった。しかしまだ目立つ形であるのがその傷らしい。どうやら鉄炮傷のようだ。当時ではまだ珍しい鉄炮で、至近距離から撃たれた傷なのだ。


「この傷をつけた男。…今も、暗躍している」


 沈着な長政だが、その男の話をするときだけ明らかに、声音が冷えた。


「昔から人目を騒がす奇計を巡らす御仁ゆえ、気がかりでなりませぬ。…聞くところによるとあの帰蝶どのがお探しの斎藤龍興めも、その懐で飼われている様子」

「それは…何者のことをお話されておるので…?」

「この長政に諱を押しつけた男にござる」

 ただならぬ様子に市が眉根をひそめて尋ねると、長政はさらに圧し殺した声で答えた。


「六角義賢…今は、承禎(じょうてい)




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