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花繚(かりょう)の動乱  作者: 橋本ちかげ
第3章 花は嵐のさなか
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第一話 将軍来る

「しばしの無沙汰。お詫び申し上げまする織田弾正忠さま」


 ともすると時おり芝居がかってすらも聞こえるその男の声音は穏やかに澄んで、それほど張ってもいないのに、どこまでもはっきりと聞こえた。


 永禄十一年(一五六八年)も初夏を迎えている。柔らかな若葉の森が明るく山肌を彩り、ようやく旧城稲葉山の影を払拭した岐阜城に、信長は一人の訪客を迎えていた。


 立ち話が常の信長には珍しい。大広間にたった一人招き通され、その男は十分すぎる会見時間を与えられていた。


「此度、御所さまにおかれましてはつつがなく越前朝倉家をご出立の由。万全のお取り計らい、伏して御礼を申し上げ奉りまする」


 紫地の素襖(すおう)に折れ烏帽子をまとったその男は、堅苦しからず、無作法をおかさず。それが生まれつき馴染んでいると言うように、涼やかに室町風の所作礼式を身をまとっている。今時幕臣でも、これほど見事なたたずまいの奏者(そうじゃ)はいないと思われた。


 しかし信長はと言えば、片頬を崩してどこか皮肉げに笑うだけである。


「とろくしゃあ挨拶はええでや、十兵衛」


 この男、明智光秀である。先年、お市に案内されて岐阜城下に現れたときにはまだ、ただの将軍の使いであった。


 それが今、信長がこれほど近しい口を利くのは、この短い間に、想像以上の信頼を得た証拠である。


「それにしてもよう、あの朝倉義景めを承服させたものだで」


 信長が感心するのも無理はない。越前朝倉家は、三好三人衆に脅かされた流浪の室町将軍足利義昭をかくまったものの、彼が織田家の庇護を受けるのを望んでいなかったのである。なんと義昭は一筆、後日必ず馳走に報いる旨、したためて朝倉義景を説得したと言われる。


「義景めへの付文は、十兵衛、おのれめが策であろうがや」


 光秀は笑って肯定も否定もしなかったが、信長の読みは間違ってはいない。なぜなら諸国を放浪し、世間を心得ている光秀の他は、誰もそんな発想は出来そうにないのである。


「尊ばしめよ、()らしむべし。…それが公方さまが、賢くもこの天下に御座(おわ)します唯一無二の所以にござりまするゆえ」

「で、あるか」

「左様。…公方さまにては、かのように言い含めましたる由」


 信長はそこで思わず失笑した。光秀が言ったことが余りに我が意を得ていたのと、それを即妙に返された光秀の答弁の見事さに、心動かされたからであった。


「御所さまは還俗されてから何しろ日が短く。故に、忠義の家臣の進言にはすすんで耳を傾けてくれまする」

「おのれめのような世話焼きの節介を厭わずか」


(明智光秀…こやつ、思わぬ出来物よ)


 話していると信長が覚えず軽口を上らせるほどに、この男は有能である。なるほど年齢相応の見聞の広さや交渉手腕の確かさなどもあるが、それ以上のものを持っている。例えばまず何より大事なのは、政治的視野である。信長が自分と見解が近いと思うのは、室町御所と言うものを、いわゆる一種の政治的装置として見ていることだ。


 室町幕府には公権力としての一般認知度が高い。


 なるほど将軍は本拠地である京都を追われ、自衛の武力を持つことも出来ず、傀儡将軍(かいらいしょうぐん)と侮られてはいる。だがいぜんとして、日ノ本の武士たちの棟梁は足利家であり、将軍家の後ろ盾こそが、自分たちの権力の最大の保障なのだと、全国の大名と言われる者たちは、ほぼなんの批判もなく考えている。


 また当の歴代足利将軍たちは、理解していたはずなのだ。有力大名の後ろ盾を受けて寄生し、いわば傀儡でいることこそが、自分たちの政治的な存在意義なのだと。


 極論を言ってしまえば、織田信長が『天下布武』を掲げると言うことは、これからそのせめぎ合いに参加すると言うことなのである。これは力のある国の大名を利用したい足利将軍と、将軍と言う政治的装置から、自分に有利な公的権力を引き出したい戦国大名との、綱の引き合いなのだ。


 この時代の多くの民のように、将軍が『尊い』故に存在する、と言う漠然とした認識でいては、この綱の引き合いに勝つことはかなうまい。


 この明智光秀と言う男、その様々な失敗例を踏まえた上で、それに挑もうとしている信長に力を貸そうとしているのだ。おおよその人々からは奇人と見られよう。朝倉家には疎まれたようだが、信長にとっては他に類のない逸材である。


(いずれは、こやつめが売った恩に報いてやろうでや)


 信長は、上洛まであと一歩のところまで来ていた。



「なに!?兄上が、この小谷に来ると!?」


 代わって、近江である。年明け、無事に婚礼を済ませたお市は、やっとこの小谷(おだに)の浅井館の暮らしにも慣れてきたころであった。


「いえ、お市さま。…ですからさっきから申しておりますでしょう。それは話の順序が違いますると」


 不快そうに釘を差すのは火偸(かぬすみ)である。どうもこの二人のままならないやり取りは、近江浅井家に嫁いでほぼ半年の時間を経ても、あまり変わりはないようだ。


「で、いつじゃ!?兄上はいつお越しになられるか!?」

「今からそれをお話申し上げるのでござる。…まずは近々、この小谷に公方さま、足利義昭公が逗留致しまする。お市さまが長政公はこれを手厚く出迎え、恐れ多くも信長公とのご対面の橋渡しを致しまする」

「なんじゃ、来るのは公方さまではないか。兄上は、何をしておられる?」

 不思議そうに、お市は眉をひそめた。

「ですから!公方さまとご対面の後、長政公といよいよ、ご上洛のご相談をなされるご予定なのです」


 すでに夏も盛りとなった七月中旬に、足利義昭は、細川藤孝、京極高成などわずかな近臣を連れて越前一乗谷を発つ予定である。長政はこれを、護衛の軍勢を率いて国境まで迎えるつもりでいる。信長との同盟では欠かせない役割であった。すでに京で命を脅かされ、一乗谷へ逃げていた義昭を、無事に信長の元へ送り届けるのである。


「朝倉殿は二千余騎の兵を仕立て上げて、公方さまをお守りすると聞いておりまするな」


 長政は、信長からの使者をも連れて将軍を出迎えると言う。これで生半可な手勢で出るわけにもいかず、今は陣立てに大わらわである。


「無論、念には念を入れてやっておりまする。…首尾よく公方さまとの対面調えられれば、次は安心して信長公をこの小谷に迎えられまするからな」


 火偸の話をそのまま伝えると、長政は包み隠さず市にそのありのままを話してくれた。奥向きで表の(まつりごと)の話などは滅多に話題にしないのがこの時代の武家貴族の夫婦だが、長政は市に何でも聞かれるままに話す。難しい政局の話を、自分なりに理解しようと努める市の健気さが、長政にはむしろ微笑ましいようだった。


「無論、義兄上(あにうえ)さまへ、返礼をせねばならぬ義理あることも忘れてはおりませぬ。信長公にはまだ、お市を我が妻に下されたお礼をしておりませぬのでね」


 と言って、長政が屈託なく微笑んだので、市も思わず面映ゆくて顔に血を上らせた。


 幸せだった。


 他国へ輿入れするときは、婿が優しい長政だとは言え、一抹の不安があったが、今となってはそれも杞憂(きゆう)だったと言える。自分でも、殿方(おとこ)に好かれる気性ではないと思ったことがある市だが、今はそう思っていたことすら、不思議に思えるほど心が優しく安らいでいた。


 監視の目を盗んで、遠乗りを強行することもほとんどない。

 これからは考えるのは跡継ぎのことと、それをどうやって長政と育てていくか、と言うことになるだろう。


 日々暮らす小谷城は、琵琶湖の北東、連なる山の尾根、峰に居館群を連ねた中世城郭である。朝夕に市は、濡れ縁から日を浴びる山容(さんよう)を眺めるのが日課になっていた。


(これから何事もなく、ずっとこの景色が続くものであろうかや)


 無論、市がそう思う通りに、運命は転んでいくことはなかった。



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