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花繚(かりょう)の動乱  作者: 橋本ちかげ
第2章 浅井市
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かりょーのどうなん?④六角家と京極家

 これから本編は、近江・京都情勢を中心に展開していきますが、ここでまず、浅井長政の前に立ちはだかる六角、京極の二家について簡単に解説をしたいと思います。


 さて近江の国が他国と違う特殊なところは、国土の中心に琵琶湖があると言うことです。


 単純に考えてその琵琶湖を取り囲む東西南北の岸辺が四つの領国になっていると言うことになるのですが、六角、京極はそのうちの二家になります。(残るは大原家、高島家)


 ちなみにこの四家ですが源流はいわゆる近江源氏、佐々木信綱と言う棟梁から来ています。


 鎌倉時代、承久の乱で戦功を上げた信綱は幕府から近江四郡の守護に任じられます。それから、信綱は四人の息子に分割してその遺領を相続させました。武士たちは領地をそのまま名字にして分家とすることが多いので、六角、京極、大原、高島とそれぞれ名乗ることとしたわけです。


 いずれ劣らぬ名家と言っていい六角、京極の二家ですが、戦国の世にことさら頭角を現したのは、六角氏でした。それと言うのも、六角氏は中央政界にも強い影響力を持っていたからです。


 応仁の乱から二十年後の長享元年(一四八七年)室町幕府九代将軍、足利義尚が、六角氏征伐のため侵略してきました。ときの当主、六角高頼はこれを迎え撃ち、撃退してしまいます。その戦果は、将軍義尚に致命傷を負わせるほどのものでした。


 (まがき)の陣と言われたこのいくさの勝因は、六角氏が率いた甲賀・伊賀の忍軍の戦功であったとされています。以後、六角氏はこの忍者たちの力を背景に、ときの京都情勢にも関与していくようになります。


 長政の代のときは、十五代義賢でした。承禎(じょうてい)の法号で知られるこの当主は、信長以前の京都の覇者とも言われる阿波の三好長慶(みよしながよし)に対しても頑強に抵抗し、近江六角家の名を知らしめていました。


 多くの歴史フィクションでは、信長の京都上洛のついでに蹴散らされている(!)印象の強い六角承禎ですが、決していくさが弱いわけではありません。外交や調停の才も発揮し、多くの業績も残しています。


 ただ「大勝ちしないけど負けない」タイプの将であったらしく、派手な戦勝がないのが、あまり取り上げられない理由なのかも知れません。


 わたしの中でも、忍者の親玉のようなイメージで、覇権を打ち立てると言うよりは、いざとなったら身ひとつ守れればいいと言った権力に対してどこか身軽な感覚のある不思議な人物だったのではないかと思っています。(ちなみに承禎は信長の死後も生き続け、関ヶ原合戦の二年前に亡くなっています。この近江情勢の関係者では最長寿の方ではないでしょうか)


 これから本編にも、かなり重要なキャラとして登場予定ですので、お楽しみにお待ちいただければと思います。


 そしてもう一方の京極氏ですが、こちらは数奇な運命を辿ります。ときの当主は高吉ですが、長政の祖父、亮政に背かれて国を追われ、復権をかけて何度も浅井家と戦うものの、あっと言う間に近江の支配権を喪います。


 最後は信長の庇護の下、名家の血として存続しますが、子の高次が長政とお市の二女、お初と結婚することになるのはまた、皮肉な運命と言えるでしょう。


 このようにお市の嫁いだ浅井家とも、切っても切れぬ密接な交わりの六角家と京極家ですが、長政の時代は宿敵でも、時代の流れとともに、不思議な縁で結びついていくところがまた、歴史を知る面白さだったりします。



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