第二十一話 悔いなき門出
(この猿、まさか言うにことを欠いて)
自分と長政との婚礼をとりやめろ、とは。
「朝っぱらから何をたわけたことを言うとりゃあすかッ!身の程を知れええいッしわッ猿!」
信長譲りの雷声を、市は藤吉郎の頭上に降らせた。
「いきなり前にしゃしゃり出おって、なんのつもりだわッ!なんなのだおのれはッ!毎回毎回!この市の癇に障ることしか言えんのかッ!」
「お怒りはごもっともッ!毎度毎度この猿めの面が気に喰わぬのも分かりまするッ!しかしこの儀のみは構えて!構えてッ!お考え直しを願いたく!」
市の馬の手綱を質にした藤吉郎は、決死の覚悟を決めたかと見えるほど頑なだった。
「そもそもこの婚礼は、兄上が決めたものだわ!その意向に逆らおうと言うならば、それは織田家に逆らうことに相違なしとは思わにゃあかッ!」
しかし、藤吉郎もよほどの覚悟してきたものか、ここは退く様子も見せない。
「身の程知らずは百も承知ッ、信長さまのご意向に添わぬもまた、承知の上でのたってのお願いにござるッ!…されどこれは織田家存亡の危機のことッ、ひいてはお市さまご自身のお命にも関わりますることなればッ!」
藤吉郎の声もまた大きい。信長の甲高く澄んだ声と違い、塩辛っぽい胴間声だが、人をして足を停めさしめる強さと迫真性がある。
「…されば、この市を待ち伏せせずとも、兄上に話せばええでや」
こちらも人目を忍んでいることもあるし、お市はそれ以上の大声で渡り合うのも、馬鹿らしくなってきた。
「いや!それは…その、おやかたさまにも…いずれ言上つかまつる覚悟でおりゃあすで!」
「されば、市の馬を寄越せ」
とお市は、藤吉郎から手綱を奪い取ろうとした。
「兄上の厩へ行きゃあ。それから市のところへ来りゃあええで」
「嫌でござる」
何かを察したのか、藤吉郎は市の手を振り払った。
「ご愛馬を渡せば、そのまま駆け過ぎて行く気でござりましょう!?」
「分かったか」
「分かっとりゃあすとも!」
お市は、思いきって藤吉郎に飛びかかった。
「ええから寄越せッ!話は後で聞くでかんわッ!」
「聞く気ありゃあせんでしょうが!」
二人が揉み合ううち、手綱が振られ、轡を曳かれた愛馬が、棹立ちになって嘶いた。
「分かった!分かったでかんわッ!誰かに見つかるからやめえッ!」
根負けした市は、叫んだ。藤吉郎はその市から手綱を引ったくった。
「話をお聞き下されまするか」
「勝手に話せ」
と、言うと藤吉郎は手慣れた仕草で市の愛馬を曳いた。
「ではその辺まで」
「人目につかぬところまで、行くだけだわ。話したらさっさと去ね」
市は不快そうに言うと鼻を鳴らした。
「…織田家存亡の危機!などと、ようも抜かしたな」
すでに城外へ出た。だがことがことだけに市は、声を潜めて聞かざるを得ない。
「得心するよう答えよ。長政どの…いや、浅井家との婚姻がなぜ、そのような始末になる?」
市にしてみれば癪である。何しろ、長政本人とあれだけの苦労をして、ようやくつつがなくなった縁談なのだ。
このしわ猿ごときが何が気に入らないのかは分からないが、また絶妙のところで水を浴びせてくるところ自体が気に食わないのだった。
「単刀直入に申しまする」
藤吉郎はそう宣言したものの、さっきからやたらに顔を紅潮させて声を張り上げるばかりで、肝心なことを中々、口にしない。
「うーさこいでやッ!はっきり、一言で申せッ!」
完全にいらっとして市が眉をひそめると、
「婚姻は罠にてござるッ!」
藤吉郎は誰もが思いもしないことを、唐突に言い切ったのだ。
「罠…だと!?」
今度は市が目まで剥く番だった。
「どのような罠だ?」
「…実は浅井方は、裏切りを画策しておるのです。このままでは、お市さまばかりか、信長さまがお命も危うくなりまする」
「なんと…」
「え、信じて頂けまするか…?」
拍子抜けしたように目を丸くする藤吉郎の頬を、市はぴしゃりと張った。
「あっ、いった!」
「信じるわけにゃあわ!このッくそだわけッ!ぬわああにが…!どおおおこが罠じゃッ!しわッ猿、これ以上ええ加減なことを申したら、承知しにゃあでよッ!」
「ええ加減なことではありゃあしませんで!これは、間諜どもがもたらした歴とした諜報にて!」
「ほう」
市は、目を見張った。
異常である。そうした情報は、まず信長の耳を通さずして他へ漏れるものではないし、まして市などの耳に入る類いのものでは決してないからだ。
「そのような大事なことをなぜ、まずこの市に話す!?」
「それは…」
藤吉郎は一旦、言葉に詰まった。
「なんだ早く申せ」
「されば申しまする。…この藤吉郎…そのッ、お市さまをお慕いしとりゃあすでッ!」
「なんだとッ!」
お市はさっきとは別の意味で目を剥いた。
「おッお前、気でも触れたか…?」
薄気味悪そうに、市は聞いた。正直、出会ってから罵倒、虐待しかしていないのである。その自覚はあった。だから煙たがられこそすれ、そのように好意を向けられる筋合いはないとすら思っているのだ。
「正気にござりまする。…でもその、慕うと申しても我がご主君、信長公の妹君にござります!女子としてどうとか、そう言う、妙な気は持っておりゃあせんで…」
「なっ、何をぐじぐじ一人で言うとりゃあす!気味が悪いでかんわッ!」
今も罵倒したのに、なぜか藤吉郎は照れている。
「いやご容赦!つい位を弁えず、面映ゆいことを申しましたで!」
「だから!気味悪いと言うとりゃあす!」
照れているわけではなく、本当に気味が悪いのだった。こちらが好意を向けていないからさぞ嫌がられていると思いきや、正反対の感情が押し返ってくると言うのは、不可解である。どう考えても割り切れそうにない。
「とにかくでござりまするなあ、お市さまばかりは、同じ織田の姫でも、常の方とは違うと思うとりゃあして」
「なんだ誉めても何も出ぬぞ」
市はすっかり呆れてしまった。どうもこの藤吉郎と言う男の頭の中身は、一生理解できないかも知れない。
「何もいりませぬ。それより、この藤吉郎、ずっと傍で市さまを見ておりゃあした。…貴女さまには、信長さまをも動かす『気概』がありゃあすで。姫君なれど、自分で道を切り開いて行く方だわ。信長さまも躊躇っておられた吉乃さまを小牧山に入城させたは、お市さまが尽力あってこそ。さればこの難局も、お市さまの力あれば、拓けると思うた次第」
「兄上に、思い直しをさせようと言うのだな?」
市はやっと、藤吉郎が言わんとすることを聞く気になった。
「そのためにこの市を利用しようと」
信長は元々、反骨の塊のような男だ。誰か自分の命を狙っていると聞いても、そう簡単には決断を覆したりはしない。
「いえ、その…一応、ですねえお市さまをお慕いしておるがゆえに危険をお知らせしたい、と言う気持ちもあるにはあるのでござりまするが」
「それは別によい気持ち悪い」
どこまで行っても、藤吉郎に辛辣な市である。
「で、罠とは具体的に」
「婚礼に事寄せた闇討ちにござる」
藤吉郎は、声音を改めた。
「お輿入れの後、信長公は浅井領へ必ず祝賀に立ち寄りましょう。浅井家の本拠、小谷城にてはご宿泊の日程もなきにしもあらず」
「そこを仕物 (暗殺)にかけようとてか」
藤吉郎は暗い顔でうなずいた。
「すでに具体的な日程で、支度は進んでおる様子。首謀者の名も、掴んでおりゃあす。長政公の傳役にて重臣の遠藤喜右衛門尉」
その名前はすでに聞き及んでいる。捨て置けない名前ではある。帰蝶によれば、浅井方でこの婚礼の反対派の急先鋒だ。
「遠藤は長政の重臣でも果断 (思い切ったことをする)の将とのこと。かつて六角家を裏切り、野良田の合戦を仕掛けた立役者の一人も、この遠藤と聞き及んでおりゃあす」
藤吉郎の話では、信長を弑したのちは、返す手のひらで、浅井家は親六角・朝倉路線へ大きく舵を切るのではないかと言うことだ。そうなればもう、織田の姫は用済みである。
「つまりはこの市を好餌に、兄上を釣ろうと言う者がおると言うのだな?」
「畏れ多いながら」
(なるほど)
と、市は思った。
長政は家中を統一すると言った。
信長にも市にもそれを約してあのときは別れた。だが実情はやはり、こうなのだ。長政が悪いわけではない。思うようにならなければ、次は裏でそうなるように絵図を描くのが、戦国の武家の常なのだ。
その遠藤喜右衛門が地下で動くと言うならば、ことはさらに複雑に難しくなるだろう。その過程で信長どころか市自身、葬られることもあるかも知れない。
(だが)
と、市は思った。ここで恐れては、長政を信頼したことにはならない。
今は、違うのだ。
(長政どのご本人を知らぬ頃とは違う)
これからも二人で。
乗り越えていく覚悟をしたのだ。
ならばここで退くわけになど、いかない。
「藤吉郎、おぬしの言うこと、すべて分かった」
市は、意を決して言った。
「今すぐ仔細、ありのまま兄上に話して指示を仰げ」
「あっ!ええっ、いやしかしッ!」
藤吉郎は思わず、声を詰まらせた。信長が素直に聞き入れないと予想がついているからこそ、市を頼ったのである。
「お前はお前の心配があろう。それはそのまま、話せばよい。…そして、こう申し添えてくりゃれ。市は…いつにても兄上の心のままに順う、と」
「お市さまッ!」
と、藤吉郎がすがろうとしたときには、お市は手綱を奪い返して、愛馬を走らせている。
「もう惑わすなッ!共に戦うと決めたのだわッ!」
自らも迷いながら、浅井家を率いる。そんな長政に添い遂げたい。改めて市はその決断の涼やかさに、身が引き締まった。
「そうかッ浅井家にも骨のある敵がおりゃあすか」
ちなみに信長は藤吉郎がありのままを話しても、驚きもしなかったと言う。
「浅井家の裁量はよろしく、長政とお市めが為そう」
そして永禄十一年、市はついに長政に嫁す。




