第十九話 危うすぎる饗応
「ふむ、温い酒もまたよし」
信長は、珍しく細長い息をついていった。
本来は、下戸の方である。余程のことがない限り、夜でも酒を過ごすことはない。
「はは、腹の虫も頃合いよう騒いできたわ」
信長が機嫌良く言い出したのは、すでに食欲をそそる音と共に辺りに立ち込める香ばしい匂いのせいだ。
料理の得意な埋火が、鉄鍋を燠火にかけているのである。これは野鳥の肉の匂いだ。
案の定、埋火は慣れた手つきで菜箸を操り、熊の手のひらほどの大きさと厚みのある肉を煎りつけているのであった。
血合いの詰まった肉には、程よい脂が乗っており、それが焼けて食欲をそそる音と共に、実に香ばしい煙を立ち上らせている。
「この匂いは、鴨であろう」
「ご明察」
煙を嗅いだだけで、どんな野鳥の肉か的中させた信長に長政も目を見張った。
「青首 (野鴨)なれば、長良川にもおるだわ。あれは肉が固うて往生こくが、よく火を通さば中々のものだで」
雉や鶴など、鷹狩りをする信長は、仕留めた獲物をその場で味試しするにも抵抗はない。
(なるほど)
と、市は思った。
戸外で信長をもてなすに、最高の野趣溢れる馳走はこれに過ぎるものはあるまい。
「琵琶湖の鴨にござる。家中の鉄炮名人が目射ちにて仕留めますれば、肉には些かの傷もなし」
「それは果報なり」
信長は思わず、膝を打った。
鉄炮が珍しいこの時代、この武器で狩った獲物を届けるのは、武家の友好を寿ぐ証として、最上のものなのだ。
「琵琶湖の産ゆえ、獲ってよりしばし、熟らして持って参り申した」
獣肉は、獲れたてよりも腐れかけが美味いのだと言う。肉の中のイノシン酸が分解して、肉質を熟成させるのである。
野鴨などは毛をむしらずに吊るしておき、目に蛆が湧いた程が、食べるに最適の頃合いだと言われている。
埋火が鉄鍋で煎る鴨肉も、実に絶妙の熟れ具合であった。鴨は冬越しの脂肪を分厚く肉に蓄えるために、煎るとこれが溶け、脂で煮られる加減になる。
「これは、間違いのう美味かろうでや」
信長は言うと、澄酒で口を湿した。
「かえすがえす、行き届いたもてなし感に入ったわ。長政どの、茶の湯なれば、さしずめこう言わるるところであろう。このもてなしにて長政が心底察すべし」
長政は苦笑して応えない。まだ、思うところがあると言うのか、信長の言うことを黙って聞いている。信長は上機嫌で続けた。
「申すも野暮なれど言わせてもらおう。…まず、この澄酒、濃茶で無しにもてなしに用いたるは、この茶器の景色を見せんがため」
と信長は酒の入ったままの盃の底を、二人に見せた。
「これはやがては龍におい育つ蛟の血を滴らせた盃に違いなし。…かの斎藤山城が秘蔵して門外不出とした名品と聞くが、なぜここに出しかは、不問としよう」
「兄上…!」
さすがは信長だ。
すぐに気づいていたのだ。市がうめくように目を見張ると、にたりとして信長は盃を干した。
「混じり気のう澄みたる長政の血酒、この信長、有り難くも頂戴致す」
畏まった口調で信長は言うと、盃の滴を切り、長政の方へ下げ渡した。どうやら、返盃を与えようと言うのだ。
しかし長政は軽く手を振り、盃を受け取らない。
「お心遣い、身に余る光栄なれどまだ、お受けできませぬ」
(えっ)
と、顔色を喪ったのは、市だ。
せっかく信長が認めた義兄弟の盃を受けとらない、と言うのは、一体、どういう了見だと言うのだろうか。
「まだ長政が赤心、さらしきってはおりませぬ」
「黙って馳走を受けよと申すか」
信長は、片眉を跳ね上げた。
機嫌を損じたわけではないが、意外であったことは確かである。
「仰せがごとく、長政は蛟にござりますれば」
と、長政は平然と、答えた。
「この血の盃がごとく、すんなりとは飲み下されはしませぬ」
「ほほう」
まるで、挑むようである。
全身全霊でもてなす、とは言っていたが。
それは媚びへつらいを見せる類いのものではなく、むしろ、蛟の心意気を見せつける、武士のもてなしであったのだ。際どく、危うい。
長政は頭を垂れると見せて、蛟らしく、龍たる信長に仕掛けているのだ。
(これはいつの間に…)
長政だけではない、信長も。もてなしもてなされる、二人の眼差しが、恐ろしく冴えて来ているのを。市はそこで初めて気づいた。
これは思ったよりも、遥かに危険な遊びだ。
市は、恐怖で腰がすくんでいるのを感じた。びしりと音を立てて、その足元が凍りついていくようだ。
埋火は気づいているのか分からないが、長政は平気な顔をしてその場にいる全員の命を危険にさらしている。
これ以上何をしようと言うか分からないが、下手に信長の機嫌を損なえば、そこで終わりなのだ。
(何たる恐い)
と、凍りつくのと同時に、市は焼けつくような快感が腹の底でふつふつと煮えたぎっているのを感じていた。
むしろ、破滅を望む、負の悦楽とでも言うか。
(長政どの…!)
そんなものを味あわせて、涼しい顔をしている長政が、市は憎たらしくなってくる。と、同時に、いとおしい。信長に替わって食い殺してやろうかと思うくらいに。
こんな気持ちになるのは、生まれて初めてだ。
(男児に惚れるとは、かくなるものか…)
今なら長政と共に、詰め腹を切って果てても、それはそれで悪くない。そんな血まなぐさい妄想すらもてあそぶ市であった。
その間にも、埋火の料理は進んでいる。
焼き上げた鴨肉を冷まして、竹皮の上で小口に切り分けていく。
じゅわりと肉汁を潤ませた鴨肉は、切り口は新鮮な赤身をにじませている。下味に塩を振ってあるから、もちろんこれだけでも酒の肴には十分である。
「…では、宜しゅうございますか」
なぜか埋火が、うかがいをたてたのはそのときである。目配せをしたのは、無論、長政だが一体何をしようと言うのか。
目だけでうなずいた長政をみて、埋火は意を決して何やら取り出した。先程の鉄鍋に何か入れるようである。
(あれは…)
鶏卵である。
丸々と肥った卵を次々と割り入れ、鍋に放り込む。こちらも香ばしい香りが立ったが、市はこれを見て、思わずえづきそうになった。
これは、
(何たる罰当たりな…!)
なのである。
日本人が鶏卵を食べるようになったのは、主に江戸時代からと言われている。
上古以来の古いしきたりが、人々の暮らしの中に生きていた。
農耕用に限られる牛馬と同じく、時を告げる神聖な鳥である鶏の卵は、罰が当たるとして、これを食さなかったのである。
(そんなものを)
もてなしの膳に饗するなど、もってのほかの無礼である。
「…なんと卵」
信長も、声をひきつらせていた。上機嫌だった顔色すらも、心なしか青ざめて見える。
その間も埋火は一心に、完成を目指している。卵食の禁はもちろん承知だが、長政のために命を懸けているのだろう。神罰も辞さない気迫を感じる。
そんな鬼気迫る表情の埋火とは裏腹に、鍋からは卵の煮える何とも甘い香りが立ち上っている。
生より少し火が通った頃合いで埋火が、酒と簀立 (醤油のようなもの)で、味を整えたのだ。
罰当たりではあるが、これは胸が好くような良い香りである。
埋火はそれからも小まめに火加減と味の具合をみると、卵が煮え固まらぬうちにこれを引き上げた。竹皮の上の鴨肉と揃えて信長の前へ並べ立てる。
「これで終わりか」
刺すような目付きで信長は、埋火を睨んだ。
「いえ…その、もう少々お待ちを!」
「これ以上、何を食わせるつもりだでや」
信長は腹立たしげに次は、長政の方へ一瞥をくれた。
「まさか鶏卵とは。…長政はこの信長に、神聖の禁を犯せと申すか」
「どうぞ、最後までお見届けを」
長政は、退かずに勧める。
「…それにまだ、膳は満ちてはおりませぬ」
「ごっ、ご無礼をば!」
埋火があわてて、何か抱えてやってきたのはそのときだ。
あれは、飯櫃である。そこに炊きたての飯が、盛大に湯煙を立てて溢れ返っていた。鴨とは別の場所で炊いていたのだろう。
炊きたてをここで、信長によそうために埋火は全神経を集中していたに違いない。
かくて飯茶碗にお焦げのついた、熱々の飯が盛られ、信長の前へ出されたのである。
「これにて出来に!」
「で、あるか」
信長は険しい相好を崩さない。
「如何にせん」
苦り切って言った。
埋火はおののきつつも、この三品で信長への食事を整えた。ここからは簡単であった。
竹皮の上で肉汁を滴らせた鴨肉を炊きたての飯の上へ配し、そこに味をつけた卵汁をかけ回したのである。
(これは…)
市は目を見張った。
いわゆる鴨肉を使った卵かけご飯だが、何かに似ている。そう、信長の好物である湯漬け飯に近いのである。
飯は炊きたて、卵は煮立て、鴨肉は焼きたてである。
まるで火を吹きそうに湯気を立てているそれを、信長は怨敵を見るように睨み回している。
「その心を申すでや、長政ッ!」
信長はついに額に癇癖の青筋を立てた。
「この信長に神聖の禁を犯させとておのれめッ!何を望むや!?」
「されば畏れながらッ!」
長政が敢然と口上の口火を切ったのは、正にそのときであった。
「天が下、おのが武を布かん、と欲するはまさに、食禁を犯すがごときものッ!禁とされれば、これを慎むような心意気では到底なしがたしッ!これよりの上洛行は、共にこの禁を犯して平然たる龍の覇道たるべしものにござりまするッ!」
「ほざいたなッ!?長政、龍が禁を破りたれば、蛟もそれに倣うとでも言うとりゃあすのかッ!?」
信長は抜刀して立ち上がらんとする勢いである。しかしそこに壁のように立ちはだかって、長政は動かない。
「お市どのをば頂戴致すのですッ」
長政は、声を張っていった。
「お市どのがごとき織田の粋の華をもらい受けるなれば、長政にこれほどの覚悟あってしかるべきかと存ずるッ!」
「なッ長政どのッ!」
さすがにここでお市は声をひきつらせた。市としては長政の心意気は嬉しいが、これでは喧嘩である。
あわてて市は駆け寄る。行ったのは長政の背後であった。
「これ以上はお止めあれ」
と、声を潜めてその袖を引いた。これでは行きすぎである。下手をすれば殺し合いになる。
「これではもてなすどころではありませぬッ!」
「いいや」
口を開いたのは、信長であった。
「もう十分にもてなされたわ。おのれら夫婦にはな」
「夫婦ッ!」
市は息を飲んで、長政の袖を離した。信長がそれを、にやにやしながら眺めていたからである。
「ははっ、見せつけようわ」
すると刃物に似た眼差しで長政を見ていた信長の表情が、思わず綻んだのだ。
「うつけめ。中々どうして、隅におけぬわ。…この信長が世話を焼かずとも、知らぬうちおのれでここまで仲を進めおって」
なんと信長はそこで、初めて苦笑を漏らしたのだ。
「この上は是非もなし。あいわかったでかんわ。…長政どののお覚悟、この信長心に沁みた。馳走、有り難く頂戴致す」
と言うなり信長は座り直した。片頬に笑いが、ほろ苦く張りついたままだ。照れ隠しのように、一気に鴨飯を掻き込んだ。
「美味い」
信長は今度はなんのこだわりもなく、これを賞味した。
「お市、鶏卵は、精がつくのだ」
にたりとして信長は市を見た。
「この信長、鷹狩りを催す。地の者共が密かに食しておる鶏卵の相伴に預かったこと、数えきれぬほどあるでかんわ」
「あっ」
信長も人が悪い。
最初から知っていて、長政と市たちを試したのだった。
「しかもこの炊きたて飯、麦が入っておるでや。食べごたえあり、余計に気味よし」
と言うと信長は、市たちに言った。
「何をぐすぐずしとりゃあす。おのれらも食すでかんわ。…まさかこの信長一人に食禁を犯させるつもりであるみゃあな」
あとは哄笑した。
(助かった)
そんな信長のいつもの上機嫌な甲高い笑い声を聞きながら、市はほっと胸を撫で下ろしたのだった。




