第十八話 結ばれゆく縁
信長は、しばし無言で眼前の長政を睨みつけ続けた。
いったい何者なのかと言う、誰何の言葉すらない。
出し抜けに声を浴びせてきた正体不明の無礼者の肚の底まで見透かしてやろうと、あの刃物のような視線を突き立てて抉るように、浴びせ返してきたのだった。
相対する長政も、それに応えない。信長の検分が終わるまでは、決して水は差すまいと覚悟を決めて身じろぎすらしない風である。
その長政だが、まず帯刀はしていないことで、信長の第一の警戒は、突破したようだ。
あとは草色の袖無し羽織に伊賀袴、蝦茶の頭巾を被り、いかにも京辺りの商家の旦那風に作っているだけだ。
これを突然近づいてきた曲者と成敗するか否かは、信長の器量次第と言うところだろう。
「市ッ」
と、ようやく信長が口を開いたのは、市に向かってだった。
「小癪者めが、この信長に此度は何を仕組もうとてか!?」
露見ている。だが考えてみれば当たり前だ。これだけ無茶苦茶な騒ぎを信長に対して繰り広げることが出来るのは、三界にこのお市だけだと言っていい。
「兄上…これはそのッ!企んだのは企んだのでござりまするが!思ってたのと違う、と言うか…」
「はッ!とろくしゃあこと言うたらいかんでッ!」
信長はお市の弁明を打ち消すと、長政に向かってあごをしゃくった。
「紹介致せや」
信長はすでに多少は察しているのか、市に皮肉そうな笑みを向けた。
「大方、この男に引き合わせたくての朝からこの騒ぎであろうがや」
「さっ、さすが兄上!ご明察!…ならば、では!信じがたきことなれど、これなるは、北近江浅井家がご当主…」
と、市が言うのに、
「浅井備前新九郎長政…参じまして候」
長政が自ら名乗りをつぐと、
「ふッ!手の早い奴だでやッ!もう見染めたかッ!」
それだけで全て察しがついたのか、信長は甲高い声で大笑いした。
「ふはははッそうかそうかッ、汝めが、かの浅井備前かッ」
信長は気さくに長政によると、その細長い二の腕の辺りを、ばしっと叩いた。津島の悪童の頃からの信長の癖である。
「話には聞いておる。…この信長には会わず仕舞いであったが、斎藤右京めの悪だくみを挫いたとか」
一件はすでに、信長の耳に入っていたのだ。
「よもや両人それで知り合ったか。…どうも怪しいと思うておったでや」
信長は興味深そうに、二人の顔を見比べた。
「見ての通りこの信長が妹は器量は申し分なし。されど女ぶりはさほどでもにゃあで気がかりでならんところであったのだがや」
「あっ、兄上!」
堪えかねて市は悲鳴を挙げた。信長が怒っていないのは、ほっとしたが、意中の長政の前で言わでものことを言われると、居ても立っても居られなくなる。
「お市どのは女ぶりも器量も卓文君にも勝る女子にござる」
長政が前漢の才女をひいてすかさず言うと、信長は肩をそびやかして鼻を鳴らした。
「ふん、まだくれてやったわけでもあるみゃあに!すでに夫婦のごとく息が合うておるものだわ」
言われて長政と市は思わず、顔を見合わせた。今のは、紛れもなく信長の太鼓判と言っていい。
突然現れ、信長の日課を邪魔しただけでなく、手管を用いて近づいたのだ。いざとなれば、破談なり手打ちなり、それなりのことを言い渡される覚悟まで二人はしていたのだ。
「さておのれら、両人の相性の良いことはよう分かった」
だが信長はひとしきり笑い納めると、今度はその鋭い眦を険しくした。
「だがこの信長の不意を突こうと言う非礼は許し難し。そもそも正面切って岐阜に参じておればよきものを。おのれら、いかな存念あってのこの仕儀か」
静かであったが厳しい糾問に、二人は顔色を喪ってしまった。
ここに至るに深い考えはあってのことながら、仮にも二か国の太守に対する近づき方としては、非礼極まりない。
正式に茶会なり、もてなしの申し入れをするならば話は別だが、この不意打ちは度しがたいと言う信長の物言いは、正論である。
「お待ちを…お待ちくださいッ!」
そのときだ。ふいに走り出てきて、信長の前へ膝行したのは、なんと埋火である。藤吉郎たちの囮に伏せていたかと思われたこの忍び者の娘は、ことの成り行きを案じて、すぐ近くで見守っていたに違いない。
「お二方になりかわりまして、ご成敗はこの埋火が受けます。…ご無礼の段、重ねてご容赦をッ」
「おのれは帰蝶の草ではにゃあか。…おのれめとは、議及ばず。横からしゃしゃり出てきておいて成敗を受けるなど!小癪なる物言いすなッ」
抜刀せんばかりの信長の剣幕である。しかしその御前に、埋火はすすんで叩頭し、自ら後ろ髪を束ねて生え際までまくりあげてみせた。
「長政どのはッ!お市どのと二人、全霊にておやかたさまをおもてなししたくッ!さればこの首にて、無礼は平にご容赦をッ!」
「その言い草こそ小癪だと言うておるのだわッ!」
ついに信長は青筋立てて、大喝した。埋火はすでに死人のような青い顔色をしていたが、退く様子は見せない。歯を食いしばって、二人のために恐怖に堪えていた。
「兄上ッ!」
市はついに、二人の間へ駆け寄った。むざむざ、埋火を斬らせるつもりはない。自分と、長政のために、これほど懸けてくれたのだ。
信長の足にかじりついてでも、埋火の命を救うのは、忠を奉じたものへの恩として当然だと、市は覚悟を決した。
「埋火は斬らせませぬッ!!」
市は、両腕を広げ信長を阻んだ。斬るなら、このまま斬られてやる覚悟である。
しかし。
「誰が斬ると申したか」
信長は、柄に手をかけたりはしなかった。ただ少し苦い笑みを唇の端に歪めて、市を見ただけである。
「仔細は分かった。…この娘が申すことが全てなれば、おのれらはこの信長をもてなそうと言うのであろうがや。なれば、存分に受けてやるでかんわ」
市は涙目になった。
「あっ、兄上!兄上えええッ」
「ええいうさこいッ!寄るな触るな控えいいッ!」
そのまま抱きつかんばかりだったが、さすがに信長は嫌な顔をした。
「それより早う案内せえ。立ち話で身体が冷えたでかんわッ」
「ただ今ッ!」
信長の馬は、長政が曳いた。無腰で両手を手綱に預け、害意のないことを示している。信長は腕組みしながら、白い息を棚引かせて川原を降りた。
すると、そこにはもう、野点のための小屋掛けがしてある。
「茶か」
信長は僅かに声を明るくした。
その小屋の端に燠火にかけられた釜があった。松の太枝から、鎖で吊られ、いかにも野趣あふれている。
信長はこれですぐ熱い茶が点てられると早合点したのだが、どうやら長政は別物を用意したようだ。
「寒さしのぎにまずは、これをお試しに」
信長へ手渡されたのは、例の帰蝶から預かった『蛟血盃』である。そこに湯気を立ててなみなみ注がれているのは、白湯と見えたが、どうやら違うようだ。
「む…これは酒か?」
と信長が目を丸くするのも、無理はない。当時の酒のほとんどはいわゆる濁酒である。しかしこれはまるで白湯のように、澄みきっている。
「これは清酒と称する僧坊酒にて。木炭にて濁りを取り去り、色を澄ませておりまする」
と、長政は言った。
無色透明の清酒は、活性炭で濾過するために、過度の熟成や劣化を抑えられるのである。
このような酒造の秘伝は奈良の菩提泉はじめ、名だたる名刹僧院で古くから守り続けられ、朝廷に納められる至高の高級品でもあった。そのため特に『僧坊酒』と称する。
「近江の酒か」
長政はうなずいた。
「百済寺樽と申しまする」
「うむ、聞いたことがある」
湯気と共にほのかに立ち上ってくる甘い酒精の香りを楽しみながら、信長は瞳を輝かせた。
釈迦山百済寺で醸された酒は、古くは室町公方が愛飲した銘酒としてよく知られているのだ。まさに近江を代表する天下の酒であり、信長が喜ばないはずはない。
「これは温めても香味が壊れませぬ。かような肌寒き朝には、茶よりも身を養うかと」
「気に入った」
信長は、掛け値なしに言った。そのまま、盃を飲み干し、すかさず埋火の酌を受けた。
「だが、これだけか?」
「次は、虫やしないを差し上げまする」
長政は微笑んだ。今度は、何か料理を出す気でいるのだろう。
(いよいよだわ…)
市は思わず息を呑んだ。
長政全身全霊のもてなしが始まった。




