第十七話 龍蛟まみえるとき
朝夕の信長の単騎駆けと言えば、この岐阜城下でも名物になりつつあった。
鷹狩り同様、政務以外の信長の日課はそれがそのままいくさの訓練のようなものだ。
暁闇の朝駆けにも藤吉郎たちと言う供連れはいるが、信長は別に彼らを待って出るわけではない。ついて来るなら勝手に来るがいいと言うものだった。
従ってこの主君は気が向いたときに、誰の手も借りずにさっさと一人支度を済ませ、後ろも見ずに発つ。本人に言わせれば、それがいくさ場ならではのやり方なのだ。
しかも出立に決まった時間はなく、気まぐれそのもので、それに付き合おうと思ったのなら、毎朝、神経を張り巡らせていなくてはならない。藤吉郎たちの労苦が偲ばれる。
だが、お市たちにとってみればそこが唯一の付け目と言っていい。
信長にとっては元々、誰にも邪魔されたくない時間なのだ。藤吉郎たちの方はあわててそれに付き従っていくため、顔を付き合わせて言葉を交わすのには、信長が馬に水を飲ませる小休止の時間に限る。
つまりは、それまでに信長との接触を果たせば藤吉郎たちの邪魔は入らない、と言うことだ。
その朝、かんじんの誘い水をかけるのは、お市の役目である。これはしくじれない大役だ。
確かに信長に追いすがれる馬術の腕を持つものと言えば自分しかいないと言う自負はあったし、万一の藤吉郎たちの足止めの方は、火偸たちに任せるより他ない。
また長政ほどの長身の武者が近づけば、信長は刺客と見なすだろう。市がやるより他ないのである。
岐阜城を取り囲むように北北東から、南西へ向かって下るのが、長良川である。この流れは、木曽川に沿い、伊勢湾に落ちていく。河口付近の島洲の中にあるのが、津島神社であった。
信長の馬首はどうやら、そちらの方面を向いている。
この津島神社は古くから、信長の織田家とは祖父の代からの付き合いだ。この神社を中心に栄えた津島湊は信長にとっては悪童と言われた頃から遊び回った古巣でもあった。当然、市もよく知っている。
「兄上ッ!」
市は道端に馬を伏せておいて、信長の騎馬に追いすがった。長良川の川筋に沿った道はなだらかで、見渡す限り遮るものはどこまでも何もない。
まだ星明かりがちらつく葡萄色の空ばかり見上げて、翔ぶように騎馬は駆けていく。愛用の栗鹿毛も、それを責める信長自身も、白い息を絶え間なく吐いていた。彼方に見える日の出を求めていくようであった。
身切れるほどの寒気を切り裂きながら脇目も振らず、進んでいくのだ。横槍に乗り入れたお市の甲斐駒になど、気づく様子もない。
(お、追い付けるかや…)
かつて信長の馬を先回りに待ち伏せたことはあったが、まともに競って追いついたことはない。
戦場において供回りの母衣衆でさえも、信長の早馬に追いつくのに、手こずるのが常なのだ。
目の前を横切ったが最後、みるみる影のように小さくなっていく。
「待てええッ!」
思わず待て、と言ってしまったが、そんな無礼も聞こえない勢いである。あわてて市は愛馬を責めたが、どこまで行っても、響いてくるのは馬蹄の轟きばかり。息せききっても、中々信長の馬体は捉えきれない。
「くッ」
だが、ここで諦めるわけにはいかないのだ。
「兄上ッ!兄上ぇぇぇぇッ!」
市は声を張り上げたが、信長は振り返る素振りも見せない。本来は、往来に人も出ていないような時間帯なのである。信長自身、誰にも注意を払わず、無心になれる貴重なひと時なのだ。
もうすぐ長政が待ち伏せている川岸の辺りまで来る。このままでは、通り過ぎられてしまうだろう。
(やむなし)
馬首にしがみつきながら、市は冷えきった唇を噛んだ。
(こうなったら、奥の手を出すしかにゃあで…!)
市は手探りでその奥の手を掴みあげた。これは導火線の点いた手投げ式の花火である。火偸にたってと頼み込んで作ってもらった最後の手段である。
これを炸裂させれば、いくらなんでも信長は振り返って立ち止まるくらいはするだろう。だが問題は、正直言ってこれは、
「爆弾」
だと言うことである。これを投げれば、気づかない人間はいないが、信長に向かって投げたとなれば、これは確実に曲者である。
(だがやるしか手はにゃあ)
信長が気づかなければ、そこで終わりなのである。
こんなこともあろうかと、市は腰に点火した火縄をぶら下げて置いたのだ。これがあれば燧石を使わずとも、不安定な馬上で即座に点火できる。
「よしっ…兄上ぇぇッ!」
信長をなおも呼びながら、市は、火花を散らす花火玉を振り上げたが。
馬上は不安定にも程がある。よほど熟練したものでも、手綱を引かぬ片手で遠くまでものを放るなど、困難である。
道に落ちた石くれの大きいのでも踏みつけたのか、市が振りかぶった瞬間、馬体がぐわんと波打って傾いだ。
「あッ!」
次の刹那、市は取り落としてしまったのである。ぼとりと手から、こぼれ落ちた。火の粉を撒き散らしながら花火はくるくると、市の馬の足元へ落ちた。
一瞬にして足元が、目もくらむほど明るくなった。物凄い音を立てて色とりどりの火花が狂った鼠のようにほとばしり抜け、市の甲斐駒は又しても暴れ馬と化した。
それでもここで落馬してしまえば救いがあったが、投げる反対の手でしっかり握ったはずの手綱が見事にひっからまって、市はまた暴れ馬の主になった。
このとき、確かに信長は振り向いた。きな臭い火薬の炸裂音と、耳をつんざくような馬の悲鳴を聞いたのである。すわ敵襲かと思い、腰の備前光忠をすらりと抜いて、輪乗りさせて馬足を留めた。
そこに市が、悲鳴を上げて突っ込んできたのである。沈着な信長だがさすがに、事態を把握しきれなかった。しかし暴れ馬にしがみついて、こちらに駆け込んでくるのが、根結い髪を振り乱した市だと言うことには、何とか気がついた。
「あっ…兄上ぇぇぇぇ助けてッ!」
「市!このうつけがッ!朝っぱらから何をしとりゃあすのかッ!?」
刀を納めた信長は馬を乗り付け、暴れる市の馬の首を自ら抱え込んで気を鎮めた。そして、肩で息をしている市を抱え上げて鞍から地面へ容赦なく放り投げた。
「未熟者めがッ!なんたる馬のあしらいだでやッ!かほどの良馬が哀れと思わぬのかッ!」
さすが、馬を粗略にすることとなると、信長の怒りは凄まじい。癇癖の青筋がこめかみに、びしりと浮き始めた。
「おっ、おやかたさまッー!敵襲ッ!敵襲にござりまするかああッ!?」
しかも悪いことに、この不穏な音を聞きつけたのか、藤吉郎たちも駆けつけてしまった。
(火偸たちはどうしたのだ…!?)
市は唇を噛んだが、さすがにあれだけの騒ぎを起こしては、火偸たちも彼らの気を引きようがない。恐らくどこかで様子をうかがっていると見えた。
「今のは正しく鉄炮の音!まさかこの馬の主は、鉄炮放ちにてござりましょうやッ!?」
「違うッ心得違いすなッ!」
ばらばらと薄闇の中から駆けつけてきそうな藤吉郎と川並衆に向かって、信長は怒鳴った。
「されど曲者には違いはあるみゃあでッ!仕置はこの信長が決めるでかんわッ」
「はッははッ!ご存分にッ!」
信長は手早く、藤吉郎たちを追っ払う。さすがに曲者が自分の身内で、しかも妹のお市だと言うことを知らるのは、家の恥だと思ったのだろう。
「お市、わごれァ狂れ者かッ!そろそろ大概にせえッ!」
信長の癇癪も限界に達したのか、甲高い怒声を放った。この有り様では、追いすがってきた理由など、聞いてもらえそうにない。このまま、問答無用で斬り捨てられるだろう。市が死を覚悟したそのときだった。
「しばらく」
場に似合わぬ澄んだ声が、一瞬、信長の動きを停めた。
「何者だでやッ!?」
(長政どの…!)
「ここまでの仕儀、我が差し金にて」
長政がその素顔と長身を、信長の前にさらしたのはまさにそのときだったのだ。




