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花繚(かりょう)の動乱  作者: 橋本ちかげ
第2章 浅井市
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第十六話 お市の天道

(…で、どうするつもりなのだわ、長政どの…!)


 あれから市は一日中、考え込んでいる。帰蝶の仄めかしたことで長政は何か糸口を掴んだようだが、やはり市には、よく判らない。


(長政どのは確か、市めが岐阜を案内したときと同じだと申されていたが…)


 あれで思いつくのは、城下の食べ歩きくらいである。礼儀作法のうるさい茶の湯からすれば、立ち食い歩き食いなどそれこそ、もっての他だ。あんな立派な茶器まで与えられてすることとは到底思えない。市の中ではどうしても結びついていきそうにもない。


(不安だでや…)


 放たれた矢のように長政は急ぎ、支度のために北近江へ戻ってしまった。訳のわからぬまま市は、長政に手を貸そうとは決意しているものの、いざ放置されるとまるで、壁にかけられた傀儡(くぐつ)のように日々が心もとない。


(そもそも兄上が、今何を喜ぶと言うのか)


 ここ数日、市は出来る範囲でこの兄の様子を探ろうと努めたが、信長と言う男ほどよく分からないものはいない。これは実の兄で幼い頃から見ているからこそ、余計にそう思うのだ。


 例えば小姓若衆など連れて、相撲や武芸に興じているときは機嫌がいい。甲高い声でしきりに笑い声を上げて、時には傍らの人の肩に寄りかかって気安く話をすることさえある。


 しかしひと度、意に染まぬことや予定通りでないことが起きると、周囲の空気すら一変させてしまう。まるで枯れ野に放たれた野火だ。手のつけられない大きさで憤怒が燃え上がるのである。


(もし、しくじれば、危ういのは長政どのばかりではにゃあわ…)


 信長は今、長政のことをどう思っているのか。長政がその姿を現す前に、それとなく確認しておかなくては、気が気でない。



「兄上、そのう!…実は折り入ってご相談があるのでござりまするが…」


 恐る恐る市が切り出したのは、信長の機嫌を見計らってのことである。


「おのれが、この兄にか」

 信長は、途端に鋭く切れた眼裂()を剥いた。

「申してみるでや。…ただし、手短にせえ」

 平素、信長は、立ち話で来客をあしらうほどに忙しい。

「実は、浅井家の…輿入れがことにござりますれば」

「仔細は、女房衆に聞け。誰にても物慣れた者がおろうがや」

 案の定、全然相手にされなかった。


 市の身で、信長の政治向きの話題に口を差すことは本来、許されないことなのだ。だがここは長政のため、臆しているわけにはいかない。


「あのっ…もしかしたら、そのう、来年の婚儀が危ういかも知れぬと言うのは、本当のことなので…?」


 口に出してから市は、薄氷を踏む想いを味わった。案の定、信長は血相を変えたのだ。みるみるうちに眉間にしわが刻まれ、圧し殺した声まで、危険な色を帯びた。


「その話、誰ぞのさかしら口かッ?」

 市はぶんぶんと、首を振った。

「かッ、風の噂にッ!…誰ともなく!誰ともなしに、聞いた話にござりますればッ!」


 市は必死に言い張ったが、こうなることは、初めから分かっていた。


「うさこい、くそだわけがおるだぎゃあッ!」

 信長は雷を落とす勢いで、怒りを吐き捨てた。

「かような流言をこぼして回るもの、捨ててはおけぬでかんわ。見つけたら申せッ、手討ちにいたしてくれるだわッ!」

「御意にッ!」

 泣きそうになりながら、市は頷いた。

「誰がなんと申せど婚儀は、つつがなく行う。…市、おのれめは浅井家でせいぜい恥をかかぬようするだわ。今はひたすら作法礼式!抜かりなく学んでおれば、それでよいのだわッ」

「御意にッ!…肝に銘じまする…」

 怖かった。怖すぎる。


 だが、考えてみれば命懸けなのだ。市ばかりでなく、信長が。浅井家との同盟は、まさにこれからの織田家の衰運が占われる最も大事な局面なのである。


 采配を振るうこの兄の双肩(かた)に懸かっているものは、もはや桶狭間の比ではない。


 だが、しかしだ。

 ここで負けてはいられないのだ。


「…長政どのに、兄上はまだ会うておられないと言うのは、本当ですか?」

「お市おのれはッ…!」


 これ以上虎の尾を刺激したくなかったのだが、どうせ口を開いたついでだ。市はここで、肚を括ることにした。


「長政どのとは、いかなる男子(おのこ)にてありましょうや!?…この市、二つとなき生涯を懸けるからには兄上が口からそれを聞いておきとうござりまするッ!」

「無礼者ッ!この信長に逆らう気かッ!?」


 信長は激昂すると、ついに柄巻を気忙しく拳で叩き出した。こうなってはいつ斬り捨てられても文句は言えない。


(でも長政どのは命を懸ける、と申された…)

 それほどまでして、自分と添い遂げると。

(さればそれに応えずして、何のための婚礼かッ)


「逆らうとは心外なるお言葉!この身を預ける相手のことを知ろうとして何が悪うござりまするのかッ!?」

「だからその物言いが、憎体だと申しておるのだわッ!」

 と、信長の怒声を押し返すようにして、市は叫んだ。


「市には、市のッ!天道がありまするッ!」


 信長は殺気で青ざめた顔をひきつらせた。殺されてもいいと思った。こうなってはむしろ、後には退かないのが市なのだ。


「兄上がように天に導かれて生きられずとも、おのれが行く末はおのれで見極めとうござりまするッ!」

「ほざいたなッ…このッ!ぐッ…不聞者(きかずもの)めがッ!」


 大喝したが、信長は抜刀しなかった。やっと我に返ったと言ってもいい。この命懸けの癇癪(かんしゃく)こそまさに、信長が見込んだお市なのだ。


「…ふんッ!」

 と信長は、これ見よがしに鼻を鳴らすと、いつもの度しがたい癇癪を収めた。

「良かろう。そちの言うことあい分かった。…長政には遠からず会う。その上でどんな相手かは話してやろうでや」

「それは…まことのことでありまするか兄上ッ」

 市は思わず、瞳を輝かせた。その目を逸らさず信長は、茶筅髷(ちゃんせんまげ)を振って頷いた。

「ただしッ!…長政がどのような男児(おのこ)であろうと、この信長がせよと命じたからには、嫁ぐでかんわッ!異論は許さぬ分かったかッ!?」

「御意ッ!御意にいいッ!」

 市は大手を振って、応えた。これは思わぬ大成功だと思った。


 信長は知る由もないが、市の目的はただ、長政に会うと信長に明言させるだけであり、他に余計な心配をしてくれなくとも、もはや長政の家へ嫁ぐ気だけは、満々なのである。



「…て、おやかたさまを怒らせてどうするおつもりかッ!?」

 金切り声で逆上したのは、火偸だ。

「何を余計なことばかりしてくれておられるのかッ!これではもてなすどころではありませぬぞッ!」

「そ、そんなにか埋火…」

「もうッ、知りません…!」

 埋火は涙ぐんでいる。彼女もまた長政のため、この目論見には命懸けなのだ。


「問題はないさ。義兄上の胸中、むしろうかがえて良かった」

 と、さりげなく市の肩を持ったのは、長政だった。

「それより市どの。…信長どのは確かに、この長政に会う、と申されたのだな?」

「確かにこの耳で聞き申した!」

 確信をもって市が言うと、長政は、嬉しそうに微笑した。

「上首尾にござる。命を懸けるには、相応しい膳立てが整いましたな」


 長政はすでに、信長に野点のもてなしをするための準備を終えている。北近江から早馬で必要なものを運び込ませ、後は実行を待つだけなのである。


「本当に上手くいくのですか。これ以上肩入れすれば、我らや帰蝶さまにまで面倒なことになる気がしまする」

 火偸は、迷惑そうだ。すでに引け腰である。

「火偸、お前はいいから調べてきたことを長政どのに話せ」

 市にたしなめられ、火偸はやや鼻白んだ。

「遠乗りの道程は、ここ数日同じ。供連れの顔ぶれも変わりませぬ」

「分かった。義兄上にはどこでお声をかければよい」

 火偸は図面を開くと、ある地点に筆を入れた。

「長良川のここでござる。藤吉郎どもは、何とかいたしまする」

 火偸は、埋火を睨んだ。この上はしくじれば、咎めは帰蝶にも及ぶから、必死である。

「市どのはこの長政とともに。離れてはなりませぬぞ」

「御意に」

 市は声を張った。

「されば明朝」



 まだ陽が出ぬ頃である。

 明けもどろの薄闇のなかを、信長の馬が走る。一期一会、長政のもてなしが始まった。



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