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花繚(かりょう)の動乱  作者: 橋本ちかげ
第2章 浅井市
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第十五話 与えられた試練

「まずは、これを使いなさい」


 そう言って帰蝶が取り出したのは、ほんの一抱えほどの小さな木箱である。市は長政と不思議そうに顔を見合わせた。


「開けて」

 言われて、長政がかけてある紐を外した。何やら丁重に仕舞ってあるが、帰蝶は一体何を持ち出してきたのだろう。

「まさかっ!首…!?」

 市はあらぬことを口走ったが、もちろん箱は人の首など入る大きさではない。


 長政は帰蝶と、微妙な目をして市を見たが、聞かなかったことにして、箱の中身を取り上げた。


「これは…?」


 そこには、実に美しい形の茶碗が入っていた。大きな蛤を綴じあわせたかのように滑らかにぴったりと持つ手に吸いついて、掌の中に収まる形である。


「…御美事」

 口をつくように、長政から賛辞が漏れると、帰蝶は目を細めて苦っぽく笑った。

「亡父秘蔵の形見です。よく出来た唐物(からもの)でしょう」


 唐物とは、当時の舶来品である。


 元々茶道具は室町の頃より堺や博多と言った、中国王朝から貿易船を迎え入れている港町で親しまれたもので、いわば海外交易の文化的副産物とでも言うべきものだった。


 茶碗、茶入れ、花瓶、掛け軸…これら茶道具を楽しむ文化は堺商人たちの手を経て京大坂に広がり、やがては全国の諸大名にも知られるようになったのである。


 お市たちの頃、美濃焼きや瀬戸黒と言った国産の茶道具は芽を吹いておらず、それらは全て外海(そとうみ)を渡ってきた貴重な品であったのだ。


「この茶碗も、斎藤道三(ちちうえ)が手を尽くして秘蔵としたかけがえのない品だそうです」


 帰蝶は長政から茶碗を取り上げると、中身の景色を市に見せた。


 碗の底は海水で濡れた美しい砂を思わせる深い黄土色の地肌に、日輪のような円紋様が描かれている。


 それだけなら良かった。が、まるでその美しい日輪を穢すように息を飲むほどに不吉な赤い斑点が、点々と這っているのである。


「こっ!これは血…!まさか血…!血ではありませぬかやあッ!」

 帰蝶の所有物には、ことごとく警戒心の強い市である。


「言い伝えでは、血…と言われているわね。…中原ではこれで、(みずち)の生き血を酒に浸して飲んだと言うから」

 そんな市の無礼にも、気に障る様子もなく帰蝶は、桃色の薄い唇を綻ばせた。

「…ちなみに蛟とは、まだ(わか)い龍のことよ」


「稚い…龍…」

 帰蝶が言外に仄めかすものを感じ取ったか、長政は大きく呻くと、そのまま手の中の景色に目を移した。


「この黄金の杯のような茶器で誰かが、その蛟の生き血を酒に垂らして飲んだとすれば、確かに、かような血の痕はつくかも知れませぬね。…この血を、不吉と忌むか、栄華を掴むための糧とするかは、持つものの器量次第」


「人呼んで『蛟血盃(こうけつはい)』。…折り目正しき茶席にては不吉の謗りを受けようとも、血で血を洗う武士の茶にはこれくらいの酔狂こそ許されめ。…亡き父の言葉よ」


「なるほど」

 そこまで聞いて、長政は、うなるように言った。

「信長公に茶を点てるに、これは確かに十分なる器量」


「武人が茶席こそ、真の一期一会なれ」

 そんな長政に、帰蝶は冷ややかな声で言った。

「長政どの、この蛟血盃、飲むものの器量も問われるるが、無論もてなすものの器量のほども問われるものと心得ませ」


 諌めるような帰蝶の声音に、市は思わず、息を呑んだ。この蝮の姫は、長政と市にただ無条件に、救いの恵みを与えんがために手を差しのべているのではないことを。


 彼女もまた、自ずから図ろうとしているのだ。


 浅井長政と言う男の器量を。それが、あの織田信長を義兄とするにどれほどに相応しいのかを。


(試されている)


 と、市は思った。無論、長政ばかりではない。長政と添い遂げようとしている自分もである。


「これは茶器ゆえ、ともかく『茶』、と言う考えに縛られるは浅薄、言わば器の小さいものの考え」

 帰蝶はたしなめるようにして、長政と市を、交互にねめつけた。

「ことの大事は、織田信長をもてなす、と言うこと。…それだけ言えば、意味は分かるでしょう?」


「御意に」

 長政は、弾かれたようにして応えた。

「重ね重ねのお肩入れ、この長政かたじけなく存じまする」

「かたじけにゃあで帰蝶さまッ!」

 市も合わせて礼を述べるしかない。


(とは言ったものの…)


 取り立てて今、何か妙案があるわけではない。たぶん、長政もそうだろうと思う。帰蝶はすでに、二人の器量を試しているのだ。ここで、退くことは出来ない。


「礼には及びませぬよ、ご両人」

 打つ手は打ったと見え、帰蝶は満足そうに微笑んだ。

「それより、早う祝言がなると良いですね。この帰蝶が求めてやまぬ龍興めの首が手に入るも、まさに二人の器量次第」

 顔こそ見合わせなかったが、二人はその場に凍りついた。

「はっ…!どうにか、首尾よく運んでみまする」

「お市どの」

 表情は笑いながらも、帰蝶の目は失敗は許さないと言っている。

「火偸と埋火を預けます。場合によっては捨て殺しにしてでも、ことは成らせませ」

「はっ!…ははっ!」

 市の声がひきつった。そこは、さすがに火偸たちに悪い気がした。



「支度は、この火偸が奔走しまする」

 火偸は不満そうだが、主の帰蝶の厳命とあれば抗う術はない。

「まず、どうなされる。野点の茶でありましょう。緋毛繊(ひもうせん)に日除けの傘、湯釜、炭桶でも用意しまするか」

「とりあえず頼む。代は長政が持つ」

 財布を出しかけた長政を、火偸は眉をひそめて制する。

「まずは現物を集めてから。…これで良いと決まったら、ざっと頂きまする」

 火偸は、ぴしゃりと言った。この男は何らかの形でも、長政に抗いたいのだ。


「あのっ、この埋火は…!いかがいたしましょう…?」

 埋火は、瞳を潤ませて長政に話しかける。火偸は何しろこれが面白くないようだ。

「お前は囮だ。…あの川並衆と猿に手込めにされんよう、せいぜい、逃げ足の早い馬でも探してくるんだな」


「ちょっ火偸、血を分けた妹であろうがや!少しは口を慎んだらどうなのだわ!?」

 市はたまらず、叱りつけた。


 いくら面白くないからと言って、今の火偸の物言いは酷すぎる。


「埋火は料理が出来まする、長政どのっ」

 市は埋火のために助け船を出してやった。


「料理か…」

 ふと、長政は考えに当たったらしい。


 帰蝶の言葉が蘇る。茶器を与えられたからと言って、ただの茶席にするのは芸がない。信長はかえって、興醒めするだろう。元々、遠乗りの行きがかりで喫する野点の茶なのだ。


「市どの、義兄上(あにうえ)を」

 と、長政は初めて、信長をそう呼んだ。

「この長政のすべてでもてなしたい。そのためには、何をすればよいと思われる?」

「長政どのの…すべて…で、もてなすとすれば、でござりまするか…」

 形のいい唇に人差し指を当てて、市は考えこんだ。これは、中々難しい話だ。


 そもそも市は、花嫁修行もろくにしていないせいか、茶席のことなど皆目見当がつかないのである。ただの茶席は芸がないと言われても、まずそのただの茶席が分からないのだから、案を出すとっかかりがない。


「それにしても、この前は、二人きりで楽しゅうござったな」

 長政がふいに、そんなことを口に出したのはそのときだった。

「なっ、長政どの、こんなときに一体何を…!」

 火偸と埋火が聞き耳を立てている。

「あのときお市どのに岐阜城下を案内(あない)してもらった。…ふと今、思ったのでござるが、あれはちょうど市どのそのもの、今の全てでもてなしてもらったようなもの」


「全てですと!?」

 火偸が、ついに目を剥いた。

「何を申されるか。…こんなときに、けがらわしい」


「うっ、うつけ火偸!何を思い違いしておるだや!?」

 市は美しい肌に血を上らせて言った。


 全て、と言う言葉が悪い。誤解である。夫婦になるとは言え、二人はまだ岐阜城下の散策を楽しんだに過ぎない。


「長政どのも何か言うて下され!」

「…あ、いや、失礼。あのときのことを考えていたらつい」

 長政は何か思いついたようである。


 そちらに没頭していたせいか、市と火偸の騒ぎをあまり気にかけていない。


「長政の全てでもてなす…か」

 長政は涼やかな笑みを浮かべると、市に向かってうなずいてみせた。

「やってみましょう。…信長公に、長政のありのまま見せたく存ずる」




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