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花繚(かりょう)の動乱  作者: 橋本ちかげ
第1章 幼蕾淡くほころぶ
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第三話 花は目覚めど


(口惜しや)


 と、市は想った。これほどまでに天に愛されている兄に嫉妬を覚えたのだが、それがなぜだかは分からなかった。


 同じ武門の生まれではある。年齢は離れているが顔立ちも、似ている。性格にも通じるところがあろう。しかし信長は信長、市は市である。織田家の当主たる信長が為すべきことと、姫である市が為すべきことは、明確に違う。そのことはあらかじめ分かっているはずだった。


 天に愛されている。


 (はた)の多くの目から見るならば、その稀有の天性は兄の信長ばかりではなく、妹の市にも確実に備わっているはずなのだった。そしてもちろんそれは、兄の信長ですら、求むれども得られぬ才質である。


 十五を過ぎる頃には、市の女性としての美貌は誰の目にも花開いて見えた。

 華奢で細長いばかりであった筋肉質の身体には、ほどよいふくらみが乗り、日向くさいだけだった髪は黒々と潤ってかぐわしく濡れ、どのような打掛や小袖にも映えるようになった。


 美しくはあるものの神経質そうな際どさを孕んでいたきつい目や頬の稜線は、淑やかなまろみをたたえ始めた。上せるようだった血の気は雪肌膚(はだ)を妖しく色づかせ、甘ったるく匂うばかりの色香を与えた。別段、紅をささずとも唇は艶めいて潤い、目にする男たちを必ず惑わせた。美形の家系の織田家でも、その容色は並ぶものはいない。


 しかし相変わらず、性は荒い。

 信長譲りの癇癖(かんぺき)が、娘の身になお余っているかのようである。


 信長は毎朝、必ず愛馬を責めた。


 普段の世話こそ小者に預けるものの、暗いうちから厩に立っては飼い葉を与え、寝藁(ねわら)の中を改め、必要なら排せつ物の臭いさえ()いだ。


 いくさ場ではいつ、たった一人で乗馬の世話をせねばならぬ事態に陥るか分からない。必要なことは一人で何でもこなせなくてはならない、と言うのが、信長の持論であった。


 そのため信長の馬は、長距離を荒々しく走り抜ける。


 片道三里(約・十二キロ)の道の往復も、ものともしない。常に単騎で飛び出していく。本番の戦場でもこの信長の早駆けに誰も追いつけず、小姓をはじめとした馬廻りたちですらしばしば、叱責を浴びる始末である。


 居城の清洲から、真東の守山城下(もりやまじょうか)まで走る経路があった。城下の入口の矢田川で、馬に水を飲ませるのである。朝もやに煙るその川瀬に今日は、先客がいた。


 藍の布子に、粗末な茶の革袴をつけた清げな若衆である。

 馬の尾のように根結(ねゆい)にして垂らした豊かな黒髪が、遠くからでも麗しく香っている。男色もいける信長好みの美少年である。

(どれ)

 さあらぬていで自分も馬を乗り入れながらも、信長は思わず目を見張った。


 それとなく近づくと、水を飲ませているのもまた、見事な黒毛である。

 地を蹴る琵琶股(びわまた)がきりりと引き締まって、いかにも地力がありそうだ。

 日々の手入れがよほど良いのか、毛づやは恐ろしく良く、朝陽を受けた川の(しずく)を弾いて濡れ濡れと輝いている。力強く猛って駆けるさまが、容易に想像できそうである。


「若子ッ、おのれ守山が家中か!ほめて遣わすでかんわ。いかさま、見事なる栗毛だでのん」


 ほめ言葉とは言え、出しぬけに信長の甲高い声を浴びせつけられて驚かない人間はいない。だが若衆は何でもないような顔でこちらを振り向いた。信長は唖然とした。よくみるとそれは、紛れもない自分の妹だったのだ。


「市め、なんだおのれめかや」


 信長は眉を八の字にして、苦そうな顔をした。この暴君が、これほどに残念な表情をすることはあまりない。市は信長が苦り切っているのが、よほど嬉しいらしい。


「兄上、これは市めの馬にてござりまする」

「で、あるか」

「先日、城下の洲ケ口(すがぐち)にて(もと)めました甲斐駒に」

 信長は応えず、今度はじっ、と市が撫でる馬の首の辺りを見ていた。なるほど、見れば見るほどに健康に肥えた良馬である。

「お市、こはおのれが見立てかや?」

「ええ、良き面構えにてありましょう」

 得意げに市は言う。

 信長はますます困った顔になった。

「馬の見立てもええが、他に見立てるものがある、とは思わにゃあのか」

「今はこの甲斐駒にて十分でござりまする」

 信長は次ぐ言葉を喪った。

 呆れた、と言うのが近いが、どことなく、諦めを知っている風でもある。


 この時代、女性は十五には縁談があった。

 十を過ぎぬ幼女の頃に話をまとめてしまうものもある。戦国大名にとって婚礼は差し迫った同盟契約であり、味方を増やすためのもっとも手っ取り早い手段でもあった。


 しかるに市には、十五を過ぎても縁談がなかった。

 誰もが息を呑む美貌である。顔立ちが整っているばかりではなく、身体のそこここから()せるばかりの色香が匂い立ってきている。兄の信長ですら、間近にいられると戸惑うことがある。


 だがいかんせん、高嶺すぎるらしい。

 世の男たちは、気おくれをしてしまうのである。

 これがやがて十七になり、十八になるとさらに手に負えなくなった。本人は気遣わないが、美しさも色香も他とは比べ物にならない。しかしだからこそ、織田家では秘中秘蔵の手の付けがたき美姫になり、夜這う度胸のある男など、余計に出てくるはずもない。


(困ったものだでや)


 本人にその気がない、と言うのも、一つの理由ではある。考えてみると、お市が興味を持つものは皆、信長が関心を持つものばかりだった。今朝がたも、わざと若衆のようななりをして、熱心に仕込んだらしい甲斐駒を見せつけてきたのも、何より信長の気をひくためなのだ。


 いぜん市は、信長の背を追っている。しかし、かつての斬りかかってきそうな鬼気迫る慕情とは形が変わっているようだった。

 それが信長としては、むしろ搦手(からめて)から弱みを攻められているようで、ますます困るのだ。


(これがあやつ、弟なれば遠慮のう叱りつけ、脅しつけてやれば、思うがままに引き回せるものを)


 若衆のように凛と作ってはいるが、近寄れば息苦しいほどに甘ったるい、花の嵐の爛漫(らんまん)を控えて咲きほこる寸前の花森を思わせる市を前にすると、信長ほどの暴君ですら、その手に余る。


(あやつめ、いったい何者たろうと思うておるのでや)

 それは、市のみぞ知るのである。



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