第十四話 貴重な策士
長政を、信長に会わせる。
余人を交えず、他人の目を気にせず。
かつての市にとってそれは、いとも容易いことだったに違いない。
清洲城にいた頃、信長は必ず夜明けの遠駆けに出、そこには供連れ一人追いすがることはないと。だからこそ市も、とっておきの甲斐黒駒で乗りつけ、兄妹水入らずで言葉を交わすことが出来たのである。
岐阜に居を移したとして、信長のその『習慣』を変えることが出来るものなどどこにもいない。いないはずだったのだ。
しかし、
「お屋形さまッ、本日も徒歩にてお供つかまつりまする!」
いるのである。
この岐阜城下の遠乗りには。
毎朝、星が出ているような頃から。怠けることなく信長を待ち受け、完全無休付きっきりで供をするものが。
(あんのへつらい猿めッ)
藤吉郎である。
あの生駒屋敷での鰌汁の一件から、台所奉行として採用されたはずの藤吉郎だが、その身の上は、一変していた。
先に斎藤龍興を追った稲葉山攻めで、藤吉郎は例の川並衆を率いて、大きな武功を立てたと言う。
それも誰か名のある者の首を挙げたとかではなく、墨俣なる要所に砦を築いたとか、稲葉山の水の手を切ったとか、一つにこれと言えない武功らしいのだが、信長は大いに評価して川並衆ともども、今までになく重く用いていると言うのだ。
この頃、信長の朝の遠駆けは、ますます重大な意味を持つようになっている。
尾張美濃二カ国を制し、上洛を目標に次は近江・北伊勢の二方面の政略、侵攻を同時に考えなければならないのだ。
藤吉郎がしつこく供をするのは、彼と川並衆が深く信長の意思決定に関わっているからなのである。
そのためにかつては、簡単に近づけた信長の身辺に寄るのは、もはや至難の業になっている。確かに市一人であれば、強いて藤吉郎との間に割って入ることは出来るかも知れない。しかし、市が会わせたいのは、浅井長政本人なのである。
「…それはさすがに、無理が過ぎましょう」
露骨に顔をしかめたのは、火偸である。
どういうわけか、長政に好印象を持っていない火偸にそのことを相談するのもどうかとは思うが、この件について市が頼れる人間はごく限られているのだから仕方ない。
「そもそも、この火偸と埋火は揃って、あの藤吉郎めには目をつけられておるのですぞ。みだりに近づけば、信長さまの面前でどのような汚名を着せられるとも限りませぬ」
火偸はまさにとりつく島もないと言うところだ。しかしひきかえ、埋火はなぜか瞳を潤ませて思い詰めた顔をしている。
「…ですが兄上、長政さまとお市さまのためではないですか。わたしは出来る限りのことはしとうござります…」
妹が長政のために思い入れているのを見て、火偸はますます、へそを曲げたようだ。
「このうつけめ、何を逆上せているのだ。お前ごときにいったい、何が出来ると言うのだ。信長公のお馬に印地(石ころのこと)でも投げつけるか。無礼者にでもなって、藤吉郎どもの餌食にでもなるか?」
火偸の極論が火をつけたのか、埋火は、むきになって目を剥いてしまった。
「必要なれば、この一命、お二方に捧げますう…!」
「うっ、埋火、無駄な騒ぎになるようなことはせんでええでや…」
これにはさすがに、市たちの方が焦った。そもそも、そんなことをして後で本当にあらぬ謀反の疑いでも掛けられたら、そちらの方がたまらない。
「気持ちは嬉しく頂くよ。…だが、これは気持ちだけでいいかな」
長政も、すかさず埋火をなだめてくれた。
「それに命を懸けるなら、まず懸けるのはこの長政の一命だ」
(つくづく勇気のあるお方だわ…)
お市は心から、長政に感心し始めている。
武士の本当の勇気は、進退の涼やかさだとどこかで聞いた覚えがあるが、うわべは荒々しい男ほどいざと言うときに二の足を踏むものだ。長政の物怖じしなさこそ、真の勇気ではないか。
「お市どの、それではここはこの長政一人がじかにお声をかけまする。…信長公は長良川で馬に水を飼うのでござろう?」
なんと長政は単騎、接触を試みる気である。
「それでは危険すぎまする」
無謀すぎる。長政と面識がないとは言え、藤吉郎はすわ刺客かと騒ぎ立てるだろう。長政自身は物々しい風貌ではないとは言え、この長身は目立ちすぎる。
(何か良案はないものか…)
などと、市が首をひねっているとだ。
「貴方たち、さっきから集まって何をこそこそ話しているの?…どうも聞きなれぬ声がするのはなぜですか」
「きっ、帰蝶さま!」
心臓が停まるほど、驚いた。
壁に耳ありと言うが、いつから聞き耳を立てていたものか。
紫地に金蘭の蝶紋をあしらった打ち掛けの裾を引いた蝮の姫があらぬ場所から音もなく現れると、忍び者の二人ですら目を丸くした。
「近江の浅井長政どのね?」
ずばりと、帰蝶は見慣れぬ顔を見つけて言う。市は、舌を巻くしかなかった。なるほど、龍興の消息を追う過程で近江の情勢は集めてはいるのだろう。
だがまさか、この美濃の姫が長政の顔を直接見知っているとは思っても見なかったのだ。
「あっ、あの!この件はどうかご内密に…!」
恐る恐る市が口止めをすると、帰蝶は、冷えきった相好を崩して微笑んだ。
「もちろん。誰に話すつもりもないわ。…それより、いったい何を企んでいるのかしら?」
「実は」
と、誰より早く口を開いたのは、長政だ。
「信長どのに直接、お会いしたく参上つかまつりました」
「おやかたさまに?」
帰蝶は目を丸くした。
「婚礼のための使者は二人、すでに会ってつつがなく話は進んでいると、聞いています。それ以上、何をしようと?」
「長政どのは、兄上と水入らずで会いたいのだわ」
長政に代わって答えたのは市だ。
「なので朝の遠駆けに、お供したいと忍んでこられた」
「おやかたさまの朝の遠駆けに?」
さすがの帰蝶も、目を丸くした。
「なぜ、そうまでして会いたいの?」
帰蝶が口にするのは、当然の疑問だ。今や両家は同盟国となりつつあるのである。
長政から直接、信長と見えたいと申し入れがあれば、むしろ信長は喜んで迎え入れるだろう。
「い、いや…それでは困るのだわ。帰蝶さま…なんと言うか、長政どのは兄上が怖いのだで…」
「怖い?」
帰蝶は鋭く眉をひそめた。
「まさか岐阜で仕物 (暗殺)にかけられるとでも?」
「そのようなことは、露ほども思うてはおりませぬ」
と、長政は言った。
「ただじかに、見えとうござる。これから手を携えていく義兄上となる御方を」
帰蝶は、じっと長政の目を見つめた。
蝮の姫の冴えきった眼差しは、長政の言葉を信じようと言うわけでもなく、ただひたすら、長政の立ち居振舞いを品定めしていたように見える。端で見守る市こそ、気が気ではなかった。
「なるほど」
やがて、帰蝶は口を開いた。
「確か岐阜に来た使者は、二名二様だったと聞きます。…この婚礼を口添えした安養寺なるものはともかく、遠藤喜右衛門尉なる重臣は一筋縄ではいかない、と言う話でしたね」
長政は苦しげに会釈をしたきり、何も応えなかった。図星ではある。この婚礼に賛成の家臣と反対の家臣の両名を使者として送り込んだのは、長政自身なのだ。
それが浅井家の、ひいては長政の立つ場所をそのまま表していると言いたいのだ。
どちらか、進退を決めるあとひと押しが欲しい。長政が信長が怖いと言ったのは、本当はそのことなのだ。つまり、信長自身を自分で見極めずに手を組むのは、怖い、と言うことなのだ。
「良いでしょう」
ついに帰蝶は、地を這うようなため息をついてこう言った。
「帰蝶が、合力致しましょう。妙案があります」




