第十二話 長政の告白
市から声をかけられて、長政はやや戸惑いを覚えたのだろうか。
馬上、少し身じろぎをした。思いきって笠をとって自分から声をかけようとしたのが、先を越されて気まずかったのかも知れない。
「お市どの…この長政が遠くから、よう分かりましたな…」
市は無言で、かぶりを振った。それも大きく二つ。すると、寒気で青ざめた頬に一気に血が上った。
「わッ…分からにゃあはずがないで…!」
つんのめるように言ってから、市は言葉を詰まらせた。
もちろん、かなり遠くから分かっていた。あれほどの長身、そして颯爽としたたたずまい、まさか見間違えるはずがないし、さらには無垢の白毛の巨馬など、馬好きの市ですら、見たことも聞いたこともない。
これほど分かりやすいようにしておいて、よく分かりましたなも何もないのだが、それを口にして、また長政に憎げな口を利くのも、良くない気がしたのだ。
「長政どのこそ何故…ここへ?」
「ずっと、気になっておりましたので」
と、長政は言うと、そこからの言葉を口ごもった。
「…この市めが言うたことですか?」
「それもありますが、お市どの自身のことも」
長政の物言いは、相変わらず屈託がない。それを見ていると尚更、市はいたたまれない想いが強くなった。
「過日」
と、市は意を決して自分から言うことにした。
「市めは、長政どのを謗り申した。なぜあのようなことを口にしたのか、今でもよくおのれのことが分かりませぬ」
「そうですか」
言ったきり、長政は黙って市の言葉を待っている。
目立った表情はそこに現れないが、市の話をその細長い体すべてで聞こうとしているかのようだった。
「長政どのは気にしにゃあふりをしておるだけではありませぬか。…武士なれば、嘘をついたと言われればその面体に泥を塗られたようなもの」
「…仰せごもっともでござるな」
長政の口調はそれでも、穏やかだ。
「泥を顔に塗られても、致し方ありませぬ。この長政は、市どのがお兄上、織田信長公の面目をつぶしておりまするゆえ。…武士にあるまじき二枚舌と罵られても、返す言葉がござりませぬ」
「のっ、罵ってはいにゃあで…!」
市は悲鳴を上げた。
自分は確かに、長政に悪いことを言った、しかしこれほど口をきわめて非難をしようとしたわけではない。ただ、うっかり口を滑らせてしまったことを謝りたいだけなのだ。
「されど、とっくにお気づきであられたのでしょう?」
長政は言うと、恥を偲ぶように目を伏せた。
「この長政、信長公とはいまだにご対面なく。市どのにはすでに会ったと、嘘をついておりましたことを」
それは。
なぜか、すぐに分かった。何となく、なのではあるが、長政の口ぶりで。
長政はまだ、兄の信長に会ってはいないのだ、と言うことを。
「では正直に、心のうちを言います」
長政はおのれの胸に手をあてると、重たいため息をついた。
「市どのに看破かれて、まるで腸を抜かれたがごとき心持ちがし申した。この長政、もはやお市どのを嫁に迎える資格がないも同然。…こんなざまで、お市どのの身を案じて忍んで参ったなどと、よく言えたものだと」
長政の口吻は鉛を含んだかのように、みるみる重たく沈んでいく。
「ああっ、あの長政どの」
それを見て、市の方が狼狽えてしまった。
「そのように…と言うかそこまで、気落ちされることはにゃあのでは…ありますまいか」
長政がそんなに追い詰められては、市の立つ瀬がない。信長の件は気まぐれに、そのときそう感じたことを口にしたに過ぎないからだ。
「それより長政どの…このお市も…思い切って尋ねたきことがあったのだわ」
「聞きましょう」
長政は気落ちした顔そのまま、硬い声で言った。こうなったらと市も、聞きたいことを聞き尽くしてやろうと思った。
「長政どのの、ご正室のことを聞きとうござりまする!」
不躾すぎる質問だと言うことは、自分で分かっていた。だがこれだけ話を尽くしたからには、聞いて損はないだろう。
それで長政が二度と自分に会いたくないと思ったとしても、それならそれで仕方ないとは思える。
「分かり申した。…思えば、その話もまだ、市どのとはお話ししておりませなんだな…」
心なしか長政の眉間のしわが、どんどん深くなる。見ているだけで重苦しい。市はいたたまれなくなった。
自分で聞いておいてなんだが、二人の間には本当にそんな気の重い話題しかないのだろうか。
「あっ、あの!ところでそろそろ少し場所を変えませぬか。いつまでもこんなところで話していたら、寒うござりましょう…!」
市はそこで、思いついたように言った。
確かに気がつくと、すっかり体が冷えきっている。
「ご城下は、ご存じでござりましょうや。この岐阜も、新しき町ゆえ、人が集まっておりまするで」
すると、長政の顔に初めて明るい色が灯った。
「お市どのがご案内下さるのか」
「はい!…ぜひに、お任せ下され」
と、市は馬首を巡らせた。
そう言えば口に出してみれば、長政とはこう言う過ごし方をしたかったのかも知れない。
師走の岐阜城下は、ちょうど暮れの賑わいに湧いていた。
信長の町づくりも一段落し、往来はかつて井ノ口と言われた頃よりも、さらなる人の出入りを見せている。
「これが信長公が街…」
大通りには思った以上に多彩な装束の者たちで人だかりが出来、よその町では見ない唐物(舶来もの)を扱う物売りの姿なども見られる。そんな人々が自由に往来出来るのも、信長が岐阜をよく育んでいるがためであると知り、長政も大きく嘆息した。
「兄上がもとには宣教師なども、遠路やってくるそうだで」
長政の岐阜案内は、市は念入りである。これもまだ、会っていないと言う兄の代わりだ。
「長政どのは、宣教師どもを見かけたことがおありかえ?」
市の問いに、長政は首を振った。
「いえ、まだ近江にては珍しいゆえ」
「市は見かけたことがありまするぞ。彼らは南蛮なる遠国から海を渡ってきたと称しまする。人によっては、なんと目玉が四つありまする」
市は指で玉を作ると、自分の目の下に当てて見せた。
「ほれ、このように!」
「いや、まさか」
長政はそこで初めて気楽に、笑った。
もちろん、本当に目が四つあるわけではない。眼鏡をかけていたのである。このとき、日本人は初めて近視用の眼鏡の存在を知ったのだ。
「さっきは寒うござりましたな!ほれ、そこに往来物 (屋台のこと)が出ておりますゆえ、何か温まるものを食すは如何か」
市は馬を長政に預けると、さっさと行列の中へ飛び込む。そこからは炭火で焼いた魚の匂いがした。
(この匂いは)
長政もすぐに気づいた。
これは、鮎の焼き干しの匂いである。師走には、産卵期を終えた落ち鮎が出る。これを焼き干しにして出汁をとり、豆油 (醤油の原型)で味をつけたものが売っているのだろう。
「お待たせいたした長政どの!」
と、市が持ってきたのは、やはり索餅である。
熱いかけ汁でいただく素麺で、古くから食べられていたものだ。製麺するときに縒った麺を円餅のようにぐるぐると巻いて作るから、古来、索餅と称する。
「美味い」
焼き鮎の出汁で頂く煮う麺は、さすがに長政もそれとうなる美味さだった。香魚とも称される鮎の香ばしさが、麺に絡んで何杯でも食べられそうだった。
「長政どの、お気に召されたか。良かったでかんわ!」
お市もこれが、大好物なのである。
市が遠乗りによく出かけるのは、町辻で出される美味しいものに密かにありつくためもあると言って過言ではない。
「この鮎は長良川のものにござるな?」
まだ湯気の立つつゆをすすって、長政は尋ねた。
「琵琶湖にても美味い鮎が獲れまする。ここのものが恋しくなっても同じものを、近江でも必ず仕立てることが出来ると思います」
「長政どの…?」
食べる手を止めて、市は思わず長政の顔を見やった。長政は市の方を見ている。
やがて、意を決したのか、市には衝撃的な事実を告げた。
「まず正室のことですが、これはもはや実家に戻しました。何故かは分かりますね?」
なにがしかの決意を含んだ声である。張り詰めたものを、市は感じ取った。
「この長政が率いる浅井家は、織田信長と言う目に賭け申した。さればこその婚礼、お市どのを我が妻として一片の隠れなくも、迎える手はずでござりました。…されど、ここは腹蔵なく申しましょう…」
長政は市を見据えると、武士として明かさざるべき本音を口にした。
「この長政、信長どのが怖うござる」




