第十話 別れ際の一言
「長政さまッ!よくぞご無事で!!」
埋火は気が気がでなかったらしく、目に涙をにじませていた。
「ああ、どうにか役目を果たせて良かったよ」
と、長政は市と、まだ龍興の逃げ去った藪の様子をうかがっていた。確かにあの蝮は逃げたかと思うが、油断する気になれない。
(恐ろしい相手だった)
江北に名だたる長政だが、さすがに冷や汗を掻いていたようだ。
際どいところではあった。
あの龍興の絡みつくような気配が持つ厭らしい重圧が、この藪に残っているような心持さえする。
それを制して、さらに市の身柄まで守るのはまさに、命がけの至難だったに違いない。いざ龍興が去ってみて市は改めて、長政の凄みを思い知った。
「それにしても埋火どの、君こそ、よく助勢を連れてきてくれたな」
と長政は、埋火の兄の火偸を見る。
陰の功労者は、火偸だ。今の目論みはあの短時間で火偸を引っ張ってこれたからこそ、卑劣な龍興にその目的を遂げさせぬことが出来たのだ。
女の埋火の声だけでは、弱かった。男の火偸の声が加わってこそだ。目撃者を消すと心に決めている龍興を追い払うことが出来たのである。
しかし助けに入った当の火偸は、浮かぬ顔である。
「して、貴殿は…?」
と、長政は聞いた。
「兄です」
本人に代わって、埋火が答える。
「埋火どののお兄上か」
長政は切れ長の瞳を見開いた。
言われた当の火偸だが、自ら浅井長政だと言う男を怪訝そうに眺めるだけだ。
「恐らくは『長政』どの。…ここは、くれぐれも念を押しておきまするが」
火偸は、渋面を作って強弁した。
「この火偸はもちろん、妹の埋火も…あなたには、ここで会った、と言うことは厳に秘して頂きたい。今、この場はなかった、と言うことで」
「分かり申した」
身分差を無視した物言いにも、長政はこだわりがない。
「兄上ッ!お市さまをお助けくださった長政さまに向かってなんたる無礼を…見損ないましたッ、信じられませぬッ!」
度を越した兄の無礼に血相を変えた埋火を、むしろ宥めたのは、この東近江の主であった。
「埋火どの、まず大きな声はお控えあれ」
長政は声穏やかに、諭した。
「…この火偸どのの言う通りだ。あの斎藤右京大輔めは無論のこと、この岐阜に浅井長政も、初めからいなかった。…よって居ざるものにそもそも礼をはらう必要はありますまい」
「うっ…」
颯爽とした長政の返しに、面目を喪ったのはむしろ火偸である。
(ほう…)
お市はと言えば、密かに目を見張っていた。
挑発にも似た火偸の意地の悪い物言いにも、権柄づくに引っ掛からず、さりげなくやり返す長政の態度は、むしろ涼やかだ。
武勇や、身分差など、綺羅を誇って当然の織田の武者たちの中には、長政のような男は決して見られない。
気づけばこの場の女子票は完全に、長政に軍配である。
「長政さまっ…何たるご厚情…この埋火、感服いたしました…」
歓声を上げる埋火の横で、すっかり妹の信頼を失った火偸は、これ見よがしに鼻を鳴らしていた。
「兄に代わって先の無礼、この埋火が平にお詫びいたしまする…!」
長政と話すときの埋火の声などは、もう上擦りかけている。
「さっきも言ったけど、気にしなくていい。元々横紙破りをしたのはこの長政ゆえ」
「はっ、はい!」
埋火などは、お市の許嫁であることすらも忘れて、長政に見惚れている。まるで風呂湯を使ったように上気した顔できゅんと切なそうに唇を噛み、うるうると双眸を潤ませてすらいた。恋する乙女である。
(こやつ、惚れたな…?)
これには市も、思わず舌打ちをしたくなった。これほどにかくも容易く、長政にぞっこんである。
「…それより、君たちにこの件の処理は任せていいかな」
「はっ、はい!…この埋火、命に替えましてもあい務めます…!」
「お気持ち痛み入る。でも無理はしないようにね」
長政は埋火には柔らかく微笑むと、
「ただ、関わっている人間が人間だけに、ことは厄介だ。くれぐれも余計な波風を立てぬよう、計らってくれるだろうね?」
今度は抜け目ない物言いだった。
それもそのはず、後処理に責任を求めたのは、埋火ではない、火偸だ。
「御意に」
火偸は、素っ気なく応えた。不承不承が顔に出ていたが、基本的には長政と同じ考えでいるために、逆らうことは出来ない。
「さて、お市どの」
話すべきことを話し終えると長政は、市に声をかけてきた。
「は、はいっ、長政…どの…!」
と市が背筋を強張らせると、長政は、いかにもおかしそうに笑った。
「そう力まずとも、もはや危機は去りました。大丈夫にござる。…さて、この件ですが、お市どのはどうされる」
「いえっ、どうされると申されましても!…あ、まず誰にも口外はしませんで!兄上にもっ、決して話さにゃあでッ!」
ぶるぶると、市はかぶりを振った。
本気である。長政のために言っているのではなかった。何しろこの一件、市からしてみれば信長の耳に入れば、首が飛ぶのは自分なのである。
「この長政、お市どのにはあえて口止めをするつもりは、ござりませぬ」
長政は、不思議なことを言った。
「むしろ織田どのには、折を見てお話しあれ。この頃の斎藤右京大輔の暗躍は、得たいの知れぬところがあるゆえ」
「はあ…」
とは答えたものの、市は、信長に向かって余計な差し出口は入れまい、と、密かに考えてはいた。
思うに、話すべきこと、話さざるべきこと、それらは、火偸たちに任せておくべきなのである。
「では次は近江にて。輿入れをお待ちしており申す。…二年前はいざ知らず、恐らくこたび婚礼の義はめでたくあい成りましょう。…信長公の威勢今や、天にも昇る勢い」
長政は、天を仰ぐように信長のことを言った。しかしかつてのように、市は信長のことをほめられて、誇らしいようではなかった。今、長政に輿入れのことを言われてむしろ、浮かない顔をしたのである。
「…いかがされたか?」
「いえ」
突き返すように言ってから、市は、笑みを取り繕う。
覚えず長政は、不可解そうに眼を見張った。
気丈に見えても、いざ輿入れと言う言葉に不安を感じたのか。ふと、長政は思ったようだが、そうではなかった。この織田の姫は時々、常の人間が見えないものが見えるのである。
「…ところで先の右京大輔めのお話。そう言えば、ですが」
え、と長政は訝った。この姫はなぜ今、唐突に、この話題に返ってきたのだろう。
するとそこで市は意を決したように、息を吸って言った。
「長政どのも、この市に一つだけ、嘘をつかれましたな?」
「…うそ…?」
長政は、思わず目を丸くした。
心の空隙を縫ってくるような、そんな機会で言われたので、長政もすぐにどう答えていいのか、分からなくなってしまった。しかし、それはおろそかには出来ぬ問いかけであった。紛れもなく今、市は長政の琴線に触れようとしてきたのである。
「…お忘れ下され」
長政の反応を見てか、市はすぐにそれを引っ込めた。
口に出しては見たものの、やはりここでは長政から答えを引き出すことを、諦めたかのようであった。
「こたびは首尾よく運び、また、お目見え出来れば嬉しゅうござる」
再び御簾をおろして姿を隠すように、市があわてて取り繕った笑みには、他人行儀の見えない壁が、立ちはだかっていた。
「それでは、今度は近江にて」
市が長政のために口にした最後の言葉は、それだった。
それから一人、長政は岐阜を去った。
国境へ案内を担ったのは、火偸と埋火である。
二人の話によると、長政はこれ以上、何も話そうとする素振りも見せず終始、無言で帰路を急いだらしい。
「別れ際に姫さまが余計なことを申されるゆえ、ご機嫌を損ねたのではありますまいか」
火偸があまり意気地良くないことをうそぶいたが、市は気にせぬふりをした。
「そうかも知れにゃあで」
それからの市は、大好きな遠乗りをしていてもふと想いに耽っている。
「長政どのは嘘をついた」
自分で言った癖に、市の頭の中にはその一言が、いつまでも渦巻いていた。




