第八話 暴かれる謀鬼
「ご無事か」
と続けて話しかける男の声は、思いのほかに豊かな声量である。
市がふとその顔を見ると、まだ若い。墨染めの法衣からも出家と見えたが蓬髪にひげ面は、黒々として艶を帯びている。
剃髪して坊主頭にならぬ僧は当時、半僧半俗と称して珍しいものではない。だが、意外に市が思ったのは望外に若い他は、男の清げなさまだ。墨染めの法衣もきちんと洗いざらされているし、唇の中からのぞく歯列も並びが乱れておらず、いかにも健康的な白さだ。
「かたじけない…御坊のお陰で本当に命拾いを致しました」
市は姫御前らしく、殊勝に頭を下げることにした。
「結構。災難でござったな」
男の声音は涼やかで、しかも、よく通る。僧と言うよりは、まるで若い能役者を見るようだと、市は思った。
「なぜかような暴れ馬に?」
「あっ、いや、それはそのう…行き掛かり上…」
市はしどろもどろに言葉を濁したが、男は問題にしない。ただ、庇の深い眼差しを細めて笑うだけだった。
「まあ、良かろう。そもそも馬は、馬の事情で暴れるもの。…ともかく、人の方の怪我がなく何より」
笑うと、どこか取り澄ましたように見える風貌が底抜けに人好さそうに崩れて、冴えた月が流れの早い雲に紛れるように一変するから不思議だ。
「え!人!?そうだでやまだ馬が暴れておるがや!」
走り出そうとする市を、僧は取り留めた。
「心配無用。ま、馬のことは気になさるな。野に放たれたわけでなし、きっと誰かがとり鎮めてくれるはず。…それより、姫御前。まずは一旦、落ち着かれた方が良いのは、貴方だ」
「かっ、かたじけない…!」
思えばここまで、息もつかせぬ経緯の市である。
「言うて悪いが、ひどい顔をなされておられるぞ。…そうだ、まずはこれを飲むと良い」
と、僧は腰に提げた竹筒を差し出した。
中には汲んだばかりらしい、ほどよく冷えた水が入っているようだ。
「美味い…」
さっきから驚かされ過ぎて、喉が乾いていたところだ。不躾だとは思ったが、これほど冷えた新鮮な水だと、飲むのが止まらなくなってしまう。
「ついさっき、寺の井戸で汲んできたばかりだ。今度こそ落ち着かれたか?」
市はため息をつくと、大きく肩を落としてうなずいた。
「はいっ、もう落ち着き申した。…重ね重ね申し訳なし…!」
「それは良かった。中身は進呈する。ゆっくりと飲んでいくといい」
と、僧が言ったときだ。声高に喧しく騒ぐ者たちの気配が近づいてきた。
「あーっ、お市さまあ!ご無事でござるかやー!?あの暴れ馬はどうなされたあー!?」
「げっ、藤吉郎…」
水筒を持ったまま、市は思わず顔を伏せた。
「どうやら、顔を合わせたくない相手の様子」
「いやっ、あの…そおゆう訳ではなくて…」
市は言い繕ったが、すでに見透かされている。僧は例の人好い笑みを見せて言った。
「匿い申そう。すぐそこに、その水を汲んできた私の寺がある」
言われて、やむを得なく市は、導かれるまま、脇の小路へ入ったのである。
そこはちょうど、さっき入った篠藪のような、ところどころ山木に阻まれた狭い小道だった。
「どうぞ、すぐそこだ」
と、言われる割りにかなりの距離を、市は歩かされた気がする。が、妙だ。
篠の林を抜けたときようやく市は、怪しいと思い出した。そこは池の跡のような谷津のたまりで、人里とはほど遠いうら寂しい場所だったからだ。
「御坊…お寺は何処に…?」
尋ねると一言も応えず、男はさっきと同じようにただ、笑顔を見せた。
「動くな」
すると。
違うところから、違う声が立った。
「長政…どの…?」
聞いたことのある声に市は、思わず背筋を強ばらせた。
「その男から離れて」
と、長政の声は言った。
「危険だ。暴れ馬も忍び者もすべて、その男が仕組んだ」
言われて市は、飛びすさるようにその若僧から離れた。最前から何かがおかしい。そう思っていたのだ。
「なッ!何奴だでや!?」
市の誰何の声の厳しさにも、その男はあの笑みを崩さなかった。
「…何奴でも良かろう。貴方にとって、わしはただの、命の恩人ではないか」
「見え透いた出鱈目を言うな」
今のは、長政が言ったのだ。
すでに後ずさった市の背後に、長政がいた。細長い体躯を音もなく篠藪からはみ出させていたのだ。長政は血と脂の曇りのついた太刀を右肩に担ぐように構えていた。
「物騒だな、これは」
と、言ったのは、僧の方だ。いつの間にかこの男の笑みには、えぐそうな苦味が混じっている。
「出鱈目を言うとは。…どちらの方かな?」
長政とその男は、そこに一直線で対峙している。ちょうどその真ん中に、市を挟む形だ。
「この坊は、たまたま通りかかって暴れ馬に乗った貴方を助けた。ただ、それだけのはずだ。疑う余地もあるまい」
それは、市に対して言ったのである。男の笑みはさっきから、顔に貼り付いたままだ。
「人をたばかるのも大概にしろ」
するといきなり長政は、言った。そのまま、急所を刺し貫きそうな冷たい声だった。
「斎藤右京大輔龍興」
「へっ、龍興!?」
市は心臓が停まるかと思った。
なんとすでに、この場に二人も。これからの織田家の命運を握る人物が、顔を見せているのだ。
「ますます、おかしなことを言う」
「とぼけるな」
「気でも触れたか。人を斬ったな?…白昼堂々、どこの往来で誰を相手に、その血で曇った長太刀を振り回してきたのだ?」
言われて市は、長政の方を振り返った。言われてみれば、さっきみたより、血なまぐさい姿になっている。
肩に担いだ長い抜き身にも確かにその痕があるが、端正なその青白い顔にも確かに、さっきは見なかった返り血と思われる黒い染みが一点、飛び散っているのだ。
さっき長政だと名乗ったこの若侍は、追っ手が迫っていると言った。
市は確かにその追っ手を見たわけではないが、追いすがってくるように聞こえた埋火の悲鳴からはそこへ伏せていた何者かが現れたことは間違いはないはずではあった。
「龍興とは以前の国主の名だな。なるほど世上、その男はこの美濃を奪った信長を、織田家を快くは思うておらぬ。しかし、だ。…今わざわざ、織田の姫とも分からぬこの娘を拐かしになど来るかね?それこそ荒唐無稽と言うものだろう」
「…市どの、奴の口車に乗ってはならぬ」
眉をひそめて、長政は言った。
「それが奴の手なのだ」
(そっ、そんなこと…いきなり言われても)
違う主張をする二人が両端。しかもどちらも、今、逢ったばかりだ。市はどちらにつくともなく、立ち往生するしかない。
「そもそも、怪しいのはお前ではないか?すべて仕組まれていた、と言うが、言うなら最初に口に出したのが当の張本人と言うことがある。…斎藤龍興と言うのは、本当はお前では?」
「なっ、長政どの…!?」
市は思わず自分の目を疑った。
「信じてくれ。私が浅井長政だ。…あやつの祖父は腐っても、あの美濃の蝮だ。奴の姦計に乗らないでくれ」
「血刀引っ提げて、目の色を変えて追いかけてきた男だぞ。…そんな男の話を、真に受けるのか?」
自分の方は安全で丸腰だと言うように、男は腕を広げ、両手のひらを見せてくる。
男二人、市を獲り合おうとするかのようだ。
「…なるほど、分かりました」
やがて市は、口調を改めて言った。
「血のついた刀を提げて追いかけてくる男は、剣呑です。確かに身を委ねるは危険やも知れませぬね」
「市どの…!」
うめくように、長政は諌めたが、市はそこから一歩離れ、僧の元へ向かった。
「おお、では分かってくれたか」
笑みで顔を明るくする男の前で、市はきっぱりと首を横に振った。
「されど、この市、兄・織田信長よりただ一つ、教えを授けられたことがありまする。曰く『嘘偽りを申すものほど、顔には笑みを浮かべる』」
男の笑みがその瞬間、凍りついたように停まった。
「『対し、真あることを述べるものの顔は、不安に引き締まっているもの』。…なぜかはよく分かりまする。本当のことを述べているものはもし、相手に信じてもらえなかったらどうしようと、心配するからだわ。御坊の笑みは、市におもねるかのようだでや」
と、言うと市は、人差し指を突きつけた。
「欺瞞者ッ、おのれが斎藤右京大輔龍興に違いなしッ!観念致すがええでやッ!」
市が冴えざえと、龍興を喝破したその刹那。
丸腰と見えた龍興の広げた両手が怪しく蠢いたかと見えると、幅広の袖口から引き裂くような鋭い金属音が鳴った。
「市どの右へ倒れえッ!」
長政の声と同時に市が、仆れこむように右へ身を退いた。
身切れる太刀風が、頬を冷たく掠めたと思った次の瞬間、けたたましい音とともに、火花が散った。金気臭い香りは刃物同士が、激しくぶつかった音である。
「仕掛け槍か」
このとき龍興が袖から出したのは、隠し持って歩ける組立式の細い手槍である。
長政の声で市が右へ倒れなければ、その切っ先はあえなく、市の胸を刺し貫いていたろう。
「惜しかった」
と言った龍興の面からは笑みが抜け、まるで死人のように冷えて醒めきっている。
「もう少しで上総ノ介めに思い知らせたものを」
携えるは、長太刀と管槍。
ついに両雄が差し向かった。




