第六話 切られる火蓋
「長政…どの…?」
市は目を丸くした。それから、周りがびっくりするような大声を出した。
「えっ!?ええっ、まさか!まさかあッ!ええっ!…ご貴殿があッ!?」
「左様、ですがそんなに驚くことですか?」
「驚くに決まっておるでや!」
まさかの結婚相手である。もっと正式な場所で、しかるべきときに、顔合わせするはずが、こんなところで鉢合わせしてしまえば、悲鳴のひとつも出るだろう。
「なっ、なに!?なぜ!?そんないきなり!こんなところに、なぜお越しになられたのだや!?」
と市が詰め寄ると、長政は屈託のない笑顔で答えた。
「今、当家の使いが織田殿に会われております」
「で、なぜ長政どのは、兄上に会わにゃあでこの市のところへ!?」
「いや、もう織田殿には会いました」
長政は、突き返すように言ってから、
「されどそんなことより一刻も早く、お市どのに会わねばならぬと、思った次第です。…さっきも言ったように、せっかくの姫君を誰ぞの謀の種にさらわれてしまっては、誰あろう織田殿への面目が立ちませぬゆえ」
「…ふむ。そんなものかえ。だがその六角家がこの市をさらって、何とする。両家から身代でも取ろうと言うわけでもあるみゃあ」
「そうですよ…!」
と、恐る恐る口を挟んだのは、最前からことのなりゆきを見守っていた埋火だった。
「今、お市さまをさらう企てのこと、長政さまは、六角家が裏で糸を引いていると仰られました。…されど、そもそも六角家の承禎さまこそは、誰あろうお市さまと長政さまのご婚礼を斡旋なされたお方ではありますまいか…!?」
「そうなのか!?」
市だけ話についていけない。
「左様、よく知っているな。だが、だったらこれも知っているはずだ。…この長政こそ、その承禎が率いた兵を野良田のいくさにて追い返し、北近江を分捕った下剋上の徒。いくさの恨みは、骨まで深い。…表裏比興 (裏表のある卑劣なさま)の振舞いは、武家の常じゃないかな」
「確かにそうかも知れません。…されど今、なぜそんな話をお市さまの前で…」
と言いかけて、埋火は、哀しそうな顔で押し黙った。
あくまで、市の婚礼は慶事なのである。成り行きとは言え、本人の前でそれをくさするようなことは、何を措いても避けるべきだったはずだ。長政が話したこともそうだが、自分でも少し、出過ぎたことを口にしたことを後悔しているようだった。
「確かに今、話をする類のものではないな」
長政もそれを察したのか、さっ、と顔色を曇らせてから、
「とにかく誰あろう、お市どの、あなたの身柄が狙われていたことは、今までの話でお分かりではありましょう。…あなたを無事に岐阜城へ送り届けるゆえ、あなたはこの長政の同道、かまえてご承知ありたい」
「わっ、わたしは…構いませぬ!長政…どのが、この市を心配して来て下されたのも嬉しゅう思いまするし、その…今、お姿を拝見できたのも…嬉しゅうございます…」
と、急にしおらしい市である。
いつもと違いすぎて埋火は、思わず目を見張った。
「お市さま…?」
「い、いや…おかしかったかえ?…あの長政どのが夫になると言われて、まだ、どう接してよいか判らぬのだわ…」
実際、事情はどうあれ、婚礼に先立ってその相手に会える、などと言うことは、想像もしていなかったのだ。最初は気楽にいつも通り話していたものの、市も長政とどうやって話したらいいのか、まだよく掴めていなくなっている。
だが当の長政本人は、あまり意識した感じはないようだ。
「まずは、この溜まりを抜けまする。…いざと言うとき馬は、走れそうですか?」
涼しい声で聞かれて市は、おずおずとうなずいた。
「だ、大事はありませぬ」
手綱は切れているが、馬は毒を盛られたわけでも足を折られたわけでもない。いざとなれば両手で馬首にしがみつけば、ここを走り抜けることは出来るだろう。
「上々。…して、ご侍女どのは」
「…この埋火、侍女にてはありませぬ」
埋火は仕方なく、忍びの素性を明かした。六角家であろうが、何であろうが何者かによって市の馬が忍びの術で狙われ、策略にかけられていることは確かなのである。
「なら、ますます上々。いざと言う際は、市どのを守れるな?」
埋火は膝を突くと、短くうなずいた。
「無論、この命に替えましても」
「良かろう。では後は、何の問題はありませぬな」
と、長政にこともなげに言われて、市は首を傾げた。
「しかし、馬は一頭しかにゃあ…のでは、ござりますまいか?」
「何か問題が?」
市は、目を丸くした。
「長政…どのは、どうなされます?」
「ああ、この長政は、露払いを致します。余計な案じは無用」
優男の長政は、こともなげに言う。
「たった一人で!?」
相手が、何人かも分からないのである。
「乗馬を抑えるのです。…無論、一人や、二人ではありますまい。…手際よくやるには、最低五人」
長政はしかし、恐れる風もなく、怜悧に相手方の人数を予想した。
「どうぞお先に」
と、長政は平然と、岐阜城の方角を指さした。
「本当に大丈夫なのですか…!?」
お市は思わず目を剥いた。
見たところ長政、確かに上背があるが、信長みたいに肌もいくさ灼けしているわけでもなく、筋骨たくましいわけでもなさそうだ。手練の忍び者と果たして、どれほど渡り合えるのか。
「ご心配は無用」
長政はこともなげだ。
その長政だが、確かによく見てみると、一つ、異風があった。
背に、長太刀を背負っているのである。
それは信長がつけている打ち刀とは違う。南北朝の頃のいくさを思わせる、長大な太刀である。見たところ四尺六寸 (約一メートル四十センチ)はあろうか。
柄は藍革で堅く菱巻きにし、少しでも目方を軽くするつもりか車透かしの鍔をつけた実戦使用。龍の金象嵌の入った黒漆塗りの鞘は質素だが気品が深い。
見事な道具だが長政のような細長い腕で、こんな大太刀、持て余さないものなのか。
「さて、そろそろ危のうござりまするぞ」
長政は言うと、じっくり腰を沈め、右肩から後頭部にかけて鞘を持ち上げた。
太刀はこうしておいて左肩の上から抜くのが、定石である。
背中に負った太刀の鞘の長さが隠れ、間合いが読みにくくなるのだ。ことに長政は長身のため、この構えをするとさらに有利である。
「…来ませぬな」
しばし辺りをうかがうようにしてから長政は言うと、途端、失笑を漏らした。
「そうか、合図が要るか」
「合図…?」
市が聞き返すが早いか長政は、ぞろりと長太刀を抜き放ち、刀の腹で鞭でもくれるように市が乗った馬の尻を、びたっ、と叩いたのだ。
「ひゃ!ひゃあああッ…まッ、また暴れ馬ッ!」
大きく棹立ちになった馬の首に、市は寸ででしがみついた。手綱など、なんの役にも立ちはしない。まさに弾丸のように、市を乗せて甲斐駒は再び爆走を開始した。
「おっ、お市さまッ!」
あわてて追いすがるのは、埋火だ。だが、彼女は次の刹那、見た。
林から二人、三人…ぴったり五人。長政の予想した通りの人数が、泡を喰って飛び出してくるのを。
しかもそれを待っていたように、長政は左右に二度、大太刀を薙いだ。
「ぐわッ」
まるで稲でも刈り取るように、仕慣れた忍びたちが血しぶきを散らしてあっけなく、斬り斃された。
「すぐに追いつく」
残心の姿勢をとりながら、長政は言った。
「主に遅るな」
埋火は市に思わず足を停めて、その凄まじい刃風に見惚れている。




