第二話 天道知る兄
だが、ことは夜明け方に動いた。今川方の情報をもたらしていた佐久間盛重、織田秀敏より丸根・鷲津の砦が陥落する、と言う報せが届いたのだ。このうち鷲津砦にいる織田玄蕃秀敏は、信長の父、信秀の叔父である。
(もはや玄蕃の大叔父さままでもが…)
と、お市は密かに息を呑んだものだ。父、信秀亡き今、数少ない信長の後見である。今川勢三万に揉みつぶされたとするならば、大叔父はすすんで死を択んだに違いない。
信長の喉元まで、その刃は確実に迫っている。
信秀存命のうちから長年憂慮されていた織田家そのものの存亡の危機が、今そこまで迫っているのである。
「馬と具足だでやッ!」
言葉短く指示すると、信長は座を立った。市が見たあの胡乱な眼差しは嘘のように消えている。
「湯漬けッ」
厨の方へ、信長は呼ばわった。具足をつけるまでの間に、食事も済ませようと言うのだ。夜間で当然、炊ぎの者は起きていない。そのはずであった。
「兄上ッ、お湯漬け出来にッ」
鋭く叫んで、箸と椀の乗った膳部を差し出したのは、お市であった。
肚の読めない信長に顔色を喪いながらも、実は万が一のため、お市は台所役に命じて火をおこさせていた。兄がいつでも出立前の湯漬けを所望しようとも、即座に出せるように段取りをとっておいたのだ。
あの信長ですらこれほどすぐに湯気の立った汁かけ飯が、出来するとは思ってもいなかったのだろう。小姓の代わりに膳部を捧げ持った市を、信長はじろりと見据えた。
「出過ぎ者めッ、お市めらッ、なぜ湯漬けを運ぶ。わごれッ女子にてあろうがや」
信長は、甲高い声で叱りつけた。
妹とは言え出陣前は、女人との接触は禁断である。月のものがある女性は出血を連想させ、戦場ではいくさ傷を被る不吉を暗示するからだ。
「はッ、縁起などとッ!」
だがお市は信長の怒気を畏れない。むしろ絹を裂くような娘の声に気魄を籠めて、言い返した。
「兄上が身で何を今さら、気にかけることなどござりまするかッ。どうせ、当家は兄上が代で終いましょう。…それよりも、華々しく討って出るなら多勢を恃む卑怯な今川治部大輔めにせめて一矢報いませッ」
城を枕にじり貧の延命策を恃むより、華々しい玉砕戦を挑む信長の決意は素晴らしい、と思った。女ながらお市もむしろ、この上は兄と運命を共にする腹積もりだったのである。
しかし、この兄の反応は、お市が思ったものとは全く違っていた。
「慮外者ッ、この信長に賢しらに物を申すでにゃあわッ」
気丈に言い張るお市に、信長はこめかみに青筋を逆立てて怒声を浴びせたのだ。
「『勝つ』いくさだでやッ!この兄めになんじょうッ、素直に義元が首級をお上げなさいませ、と言えんでかんわッ!?」
予想外の刺すような気魄を浴びせられて、内心、息を呑んだ。
「『勝つ』…いくさ?」
お市は目を丸くした。
なんとこの兄は、すでに勝つ気でいたのか。
行くも地獄、引くも地獄のこの土壇場である。
お市も密かに守り刀の懐剣を研ぎ、いざと言う際にはこの清洲で自決の覚悟を秘めていたから、その信長の心算に思わず唖然とした。
「あ、兄上は、あの治部大輔めに勝たれますのか?…いかに、これからいかにして…?」
子供のように無邪気な質問が出た。
すると仕方なく、市が差し出した湯漬けを喰らっていた信長は、堅くしかめた右の頬に縦筋を浮かせて、
「どうつけめッ、今ここでたかだか小娘のおのれめに話したところで何となる。身の程を弁えいッ!」
切れ長の目を剥いた信長の怒声は、いくさ前の昂奮でほとんど殺気を含んでいる。さすがの市も、言葉を喪った。
「だが」
と、ややあって信長はとりなすように言った。
「この湯漬けめの支度ばかりは、よう仕出かしたッ!…よって、恩賞に土産話をば遣わそうでや。この信長めの首から上がつながっていて、晴れて、義元が首級、我が物にしたれば、な」
甲高い声で信長が笑った。はっ、と息を呑んだ市が顔を上げると、この兄は驚くほど澄んで潤んだ瞳を輝かせて、微笑んでいた。
「そしてこれは、万一のときの冥途の土産だでや」
すらりと鉄扇を開いた信長は、舞いをひとさし、市に見せつけた。
幸若舞の『敦盛』。
これは兼ねてより、信長気に入りの一節である。
「人間五十年」
身に慄きを覚えるほどに、市はそのひと差しに魅せられた。
この舞い好きの兄の所作は、幼い頃から何度も眼にはしていた。
故郷の津島の舟祭りでは、余興で女装舞いを見せるほどの数寄である。
ふだんその甲高い声は、低く咽喉を震わせて謡えば、朗々として響き、しなやかな体躯を躍らせる所作には、衆目を惹きつける華があった。
「下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり」
しかしがらんとした板の間で篝火台を背に、市ばかりを観客として踊ったその幸若舞ばかりは、巧い、と言う表現すら軽々しく寄せ付けぬ凄みがあった。神々しい、と言う形容は、感心よりは畏怖から湧き出づるものであるはずだろう。
「ひとたび生を得て、滅せぬ者のあるべきか」
その日の信長は、まさに神々しかった。篝に照らされて織田木瓜の幔幕の引いた板塀に映るその舞い姿の影には、避けえぬ死の影が濃厚に匂っている。それがむしろ、ぞくぞくするほどの幽玄さでこのひと差しに、目もくらむばかりの魔性の鬼気を色添えていた。
昂奮で熱いはずの市の頬からは、いつしか血の気が引いていた。
「天運を祈りゃあッ」
それからあわただしく、信長は去った。市の手元には、兄が掻き込んだ湯漬け飯のぬくい木椀に飯粒ひとつなく、先の濡れた木箸が収まっているばかりである。
市に向かって口にした『勝算』は、ただの強がりなどではなかった。
織田信長は見事、今川家当主の大首級をおのがものにしたのだ。
「兄上が滅さず、生を得たからには聞きとうござりまするわもッ!あのとき兄上は、何を心づもりになされておったのか」
お市は、浴びせかけるように問うた。本当は気になって気になって、仕方がなかったのである。だが当の本人がすすんで口を開かぬので、怒りを呑んで待っていただけだ。
「はははッ、忘れておらなんだか。…我が妹ながら侮れぬ小娘よ」
信長は今度は、お市をなだめるように言った。
「されば申すでや。この信長めが待っておったは、まごうかたなき『天』の報せよ」
「この上、子供だましを口にさるるか」
市は冷笑して、唇を突き出した。
「はは、子供だましでにゃあわ」
しかし、この兄の妙なところは、そんな市の挑発的な物言いにも、不思議と怒らないところである。怒るべきことがあるなら、たとえ鼻紙一枚床に落としたことのほどでも、刀を抜いて怒る兄だが、時になぜか天から産み落とされた赤子のごとく、無邪気に澄んだ目をすることがあるのである。
「あのとき我は、天へも加勢を頼んでおったのだわ。…おのれめは、見上げておらなんだか。この信長と同じ、頭が上にあるものを」
「頭が上に…あるもの…?」
馬鹿にするな、と言いかけて、お市は、あっ、と悲鳴を上げかけた。
「もっ、もしかしてそれは、もしや『雨』のこと…?」
恐る恐る口にした答えに、信長は満足げにうなずいた。
「さよう。降ったであろうがや。この地を揺るがすほどの、大きなにわか雨が」
それはまるで、信長のために計らったような大災害であった。
桶狭間にて休息する今川義元、その本陣に信長が迫ろうとした刹那、記録的な豪雨がこの地に降りそそいだのであった。石か氷を投げうつような、と記録にも残るから、雹か霰混じりの爆発的なにわか雨である。
今川勢はこれで一気に、その機能を奪われた。
追い風になる南東から迫った織田勢は、本陣に迫っているにも関わらず運よく発見されずに済んだのである。しかも奇襲攻撃が始まろうと言うそのさなか、これほどの大災害が去った。まさにまるで信長の作戦を成功させるためだけのために、降った豪雨であった。
「まっ、まさか!?まさかあれを…兄上は、狙うて待っておったのでござりまするかッ!?」
さすがの市も叫び声をあげた。そんなことが出来れば、それは天魔鬼神である。
「当たり前だでや。…あらかじめ長きにわたって、熱田浜の塩焼きども(製塩業者)に心づけをば遣わし、この地の天候のあらましを報じさせておったでかんわ」
「さッ、されど!空の模様など、天の采配の預かるところッ!雲や空色を読んだとて、首尾よう、その天気に巡り合わねばなんとされましたやら!?」
「さてな」
信長は、いかにも可笑しそうに言った。
「雨が降らねば降らぬで、そのときやりようを考えればええだわ」
「あっ、兄上たるものが、さようなあやふやな!」
「さればこそ、いくさは面白いであろうがや」
日々これほど神経質にいくさ算段をするかと思えば、あまりにいい加減な答えである。
「何が面白いでかんわ!兄上!まさかこの市めを担がれたのではありませぬかっ!?」
「担いではおらぬて。…いずれおのれにもそれと分かろうわ。たかだか人間の為すところ、それ以上は是非の及ぶところにあらず。それでも心算を尽くせば、あとは天が導いてくれるのだでや」
「冗談を申されますな!この市めに、いくさは出来ませぬ。ただの女子にござりまするわもッ!」
市は噛みつかんばかりに吠えたが、信長は子猫に喰いつかれたほどの歯牙にもかけない。
「天からみればそうそう変わらぬ。同じ五十年の人間だわ」
いかにも楽しそうに言うと、信長は盛大な笑い声を立てて去って行った。