第四話 長政
その頃、信長は明智光秀に続く次の来客を迎えていた。
普段はどのような来客でも、立ち話で済ませる信長が珍しく板の間に迎えている。
下座に平伏する二人の武士たちは、いずれも浅井家のものであった。素襖に烏帽子と言ったゆかしい姿の二人は、板の間に据えられた織田木瓜の家紋を仰ぐように眺めている。
「…かねてよりの懸案でござった、市姫さま御輿入れの件、つつがなく運びたる段、祝着至極に存じ奉りまする」
くだくだしい使者の口上を、信長はそれほど熱心に聞いていない。それより、浅井家から遣わされた者たちの物腰から、何か益のある情報でも読み取ろうと、余念がない。
使者の一人の名を、信長は知っている。
さっき決まりごとの口上を述べ立てたのは、安養寺三郎左衛門氏種と言う近江の土豪である。振り返ってみればこの男が、そもそもこの浅井家と織田家の婚礼を取り持ったのだった。
信長はこの男とは何度も折衝を積み重ねており、不穏な表裏のない人物だと言うことで覚えている。思えば美濃陥落に手こずった信長に対する浅井家の信頼を、この二か年の間つなぎとめていてくれたのは、紛れもなくこの安養寺なのである。
「辞儀合い無用。…それより無事、輿入れを終えたる暁の、さらなる肝心の件について長政殿の存念を問いたし」
「さらなる肝心の件とは?」
安養寺は屈託なく、目を丸くする。
信長はあえて、それを気に留めず話を押し進めた。
「先達て、室町御所より使者を迎えた。…名は、明智十兵衛光秀」
信長はその名を言い放って、二人の反応をうかがった。
「聞くならく、十兵衛光秀めは越前朝倉家にいたこともある者だと言うことだわ。…その光秀が説くに、朝倉家には上洛の意思全くなく、今の御所は明日をも知れぬ命との京ではもっぱらの噂だでや」
「成程」
と言ったのは、安養寺ではなく、その傍らに控える武士である。しかも今の物の言い回しは、どこか、聞えよがしなものを含んでいた。
信長は、こみ上げる癇癪を押し殺して言った。
「上洛は、もはや急務だわ。…ひいては浅井長政どのに、入京の軍勢に加わるべく、急ぎ然るべく支度を調えてもらわねば、ことは覚束なし」
「立ち返って、主長政に伝えまする」
相手は当たり前のことを言った。またも安養寺ではなく、あの無礼な男だ。そもそも、この件について信長の意向を長政にありのまま伝えるなどと言うのは、言わでもの話なのである。
(問題はどう長政めに伝えるか、だでや)
信長はそれを見極めようとしている。言うまでもなく、長政が立ててきたこの二人の使者こそは、今の浅井家を象徴する表と裏、決して相和することのない二つ派閥の顔ぶれそのものだからだ。信長は長年、取次に努めてくれた安養寺三左衛門は疑っていない。だが問題は、それとは違う立場から同座しているもう一人の男と、そんな男の同道を許した浅井長政自身の底意そのものなのである。
「安養寺めに同道したるあの男、確か何者だと申したでかんわ」
二人が去ったあと、信長は納戸裏に控えていた森可成をわざわざ召し出して、問うた。
「あの者は長政の腹心にて須川城主、遠藤喜右衛門尉直経と申する者にて候」
「で、あるか」
と、だけ言って信長は、そこに控えている森可成の姿をまじまじと見渡した。
「何か」
さすがに気になって、可成が問う。
「…似ておるだわ」
信長はその非礼を咎めるわけでもない。
ただ、可成を見つめる信長の目が自然と、険しくなる。
無論、可成を責めているわけではない。あの遠藤と言う武将のことである。聞けばあの男、鎌倉以来の近江武士と言うが、物腰に隙のないところが多すぎるのだ。
「あの遠藤なる武者、忍び者か」
「あるいは」
と、可成は首を傾げ、
「浅井家にはこの森がような、忍び働きも心得る武者も多いやも知れませぬな」
「で、あるか」
これを聞いて信長はさすがに、苦い顔をした。
そもそも近江は広やかな琵琶湖に恵まれた温順な土地柄だと思いがちだが、それは表の顔である。伊賀と双璧をなす、甲賀忍びの恐ろしさは、信長の耳にも入っている。
彼らはかつて幕府の討伐を受けたにも関わらず、これを逆に撃退し、ついにはときの足利将軍義尚を暗殺したとも言われている。このいくさは鈎の陣と呼ばれ、甲賀者の恐ろしさを世に知らしめた。
尾張美濃両国を領する信長が、恐れるものはもはや多くはない。だが、その中で最大の恐怖が、忍びによる暗殺、と言っていい。こればかりはいくら大軍を擁する国力を得たとしても、防ぐのは至難の業である。
浅井家にはあのような忍び者のような男が、多くいるとなればお市を嫁に出してひとまず誼を結ぶとしても心変わりがあればいつ、寝首を掻かれるとも知れない。
それにしても気に入らないのは一向に、長政本人との顔合わせがないことである。
(長政めいかなる腹積もりにてあるか…)
酔狂を好む信長にしても、さすがにこの賭けは読めなかった。
(果たしてこの信長の毒となるか、妙薬となるか)
「みっ、身の丈六尺(約一八十センチ)!?…では、長政殿は兄上よりも背は、でえりゃあ大きいでにゃあかッ!?」
「あの…それももう、何度も申し上げましたよお市さま。まさかお話しするたびお忘れでは…」
果たして本当に市は、お嫁に行く気があるのだろうかと思う、埋火である。
かくて、目出度く輿入れは来年初春と決まったが、年内にすべきことは山ほどあると言うこの秋なのだ。それなのにお市は、人目を盗んでは毎日のように遠乗りへ出る。そのたびに家中では手に負えず、火偸と埋火が探索に出る、それが日課になりつつあるのである。
(お市さま、嫁に行くと言う実感がないんだろうな…)
同じ女として、埋火は薄々それに気づきつつあった。あの織田信長の姉妹の中でも出色で、美しい、美しいと言われ続けてはきたが、それであまりに近寄りがたくて、男たちにも手を出されず、本人も関心を持たずで、ここまで来てしまったのだ。いきなり誰かの嫁になれと言われても、にっちもさっちもいくまい。
頃合いを見計らって埋火は、そろそろと切り出した。
「あの、お市さま、そろそろお城へお戻りになられませぬと…」
輿入れの指南があるのである。しかも色々と滞っている。川辺で馬に水を飲ませている場合ではないのである。
「いや埋火、まだええでかんわ。…ところでそう言うお前はどうなのだえ。…この市と同い年で、好きな殿方の話ひとつせぬではにゃあか」
「こっ、この埋火のことなどお構いなくッ!」
埋火は、忍びなのである。忍びの分際で主君に、浮いた話を相談するなど、聞いたことがない。
「それより城へお戻りなさいませッ!せっかく花嫁修業をとお待ちの帰蝶さまが、お怒りになられまするですよっ」
「分かった分かった。…だが、こやつの足も鈍っておるのだわ。もう少し遠出してからにしてちょうや…」
と、市は馬の轡を曳く。もうひとっ走りしようと言う肚だ。しかしこのとき、思わぬことが起きた。
「わっ」
川辺の涼しい風を浴びて、楽しそうに首を振っていた馬が大きく棹立ちになったのだ。虻にでも尻を刺されたのか、不穏な声でいななきだした。市は手綱を曳いて抑えようとした。だがそのときである。
丈夫な革製の手綱が、ぶつりと突然、切れた。今朝、替えたばかりである。訳が分からぬまま、お市は態勢を崩した。同時に興奮した馬が、信じられない速度で駆け出したのだ。
(しまった)
とっさに下馬すればよかったのだが、切れた手綱に手首が絡んでいる。鐙からも足が離れて宙づりになりそうだ。馬は市を引きずったまま、みるみる埋火をとり残していく。
「お市さまッ!誰かッ、お助けをッ!」
「騒ぐなッ!」
市はとっさに叱りつけたものの、一人ではどうにか出来そうにない。
そうこうしている間にも馬は川辺の土手を駆けあがり、街道に出てしまっている。これで誰かに当たってしまったら、それこそ市の面目がない。
(しまった)
市が内心、ほぞを噛んだその時である。
「あっ」
市は思わず声を上げた。暴走していた馬体が突然、停まったのだ。
恐る恐る顔を上げると、とっさに出てきた誰かが、暴れ馬をなだめているのが分かった。
(助かったか…)
「大事ありませぬか」
馬をなだめていた男が言う。
思いも寄らぬ涼やかな声音に市は、はっとしたように息を呑んだ。
豊かな黒髪を束ね、燕色の袖なし羽織を着た若武者がひとり、そこに立っていた。




