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花繚(かりょう)の動乱  作者: 橋本ちかげ
第2章 浅井市
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第三話 帰蝶の魂胆

「曲者…だと?」

 唐突に出た場違いな言葉に市は、目を見開いた。晴れの祝い事について話すには、その語感は不穏すぎる。

「曲者とは、浅井家の家中のものか?」

 火偸は小さくかぶりを振った。

「いえ、違いまする。ですが、織田家で行方を追っている者です」

「兄上が…?」

 市は聞き返したが、今や信長に仇なす曲者など、いちいち名を挙げていったら、それこそきりがあるまい。

「ではそれこそ、荷が重くないかえ。まだ信じられぬが…これより市は、他家の室、いわゆる奥に入るのだぞ?」


 結婚の経験のない市にも、大名に嫁いだ女の生活は、分かっている。まず自分の母親がそうなのだ。正室のことをそのまま奥、と呼ぶように、大名の嫁などは奥御殿に引き籠って暮らすのが当然であり、我が身の自由などほとんどないはずだ。


「心配はご無用。市さまにおかれましては輿入れなされる浅井長政公にその折、上手く、とりなしのほどをして頂ければよろしゅうござる」


 立て板に水にここまで述べた火偸の顔つきは、裏取引を持ちかける素破者の表情そのものになっている。


「火偸お前…間者として、同行する気か」

「無論。いざと言うときは、埋火とこの火偸で、お市どのが身をお守り致しまするし、一石二鳥かと」

 火偸は平然と述べ立てたが、どうもきな臭い。

「そもそも、嫁入りについていく者たちは、兄上が選ぶのではないか。…お前たちは元々、帰蝶さま付きのものにてあろうがや。勝手についていったら、障りがあるではにゃあのか」

「さて、その儀は…」

 疑り深い目を市は二人に向けてみたが、火偸は微笑して応えない。やはり鍵を握るのは、主の帰蝶のようである。


「…それで、ようやく戻ってきたのですか」

 息せき切って現れた市を帰蝶は、呆れたように横目で流し見てきた。


 奥御殿にいないからと、今度通されたのは、白砂がひかれた中庭である。

 見るとそこに何枚も粗莚(あらむしろ)が敷かれたり、謎の石積みのようなものが置かれたりしてあり、その間を尻をからげた人足たちが出入りして大わらわで仕事をしている。


 当の帰蝶はと言うと、ひとり濡れ縁に座り朱塗りの盃で酒をたしなみつつ、何やら楽し気にその作業の進行を見守っているのである。


「話は火偸たちから聞いているのではないの?」

 白濁した地酒で唇を濡らしながら、帰蝶は物憂げな目を向けて見返してきた。

「いや、それは…」

 気負って乗り込んできた市だが、いざこの帰蝶を目の前にすると、語気が衰える。冷たく澄んだ視線が、壁のように立ちはだかって勢いを阻んでくる気がするのだ。


「見つけて欲しいのは、織田家にあだなす者です。…おやかたさまにとっても気がかりな人物ですし、あの兄妹を供連れに加えるについても、よもや異論はないでしょう」

「そもそも、誰なのですかその兄上が気がかりな人物と言うのは…?」

 お市は恐る恐る尋ねた。帰蝶はしばし、お市自身から答えが出るのを待っていたが、やがて諦めたように、

斎藤右京大輔龍興さいとうさきょうたいふたつおき。…亡父(ちち)が国に当然のようにして居座り、今は虎視眈々(こしたんたん)とこの美濃を狙う国盗人(くにぬすびと)ではありますまいか」

「く、国盗人…!?」

 あまりに強い糾弾の語気に、市は思わず、自分が責められたような気になった。

「しかし今は、美濃を退転した身では…」

「…ただで退転したわけではありませんよ」

 と、帰蝶の声が殺気で冷え込んで、低く詰まっていく。


 確かにこの八月、稲葉山城に取り籠められたうえ、斎藤龍興は降参を申し入れて、手回りの者ともども美濃を退去した。


 だが、美濃奪還を諦めたわけではない。関ケ原を脱けて北上した龍興は、信長と敵対する朝倉家に取り入り、着々と反撃の手はずを整えていると言うのだ。


「されどその龍興殿とて、軍勢を持っているわけではありますまい」

 市は率直に思うことを返した。


 朝倉家は食客として、国を追われた大名崩れを飼い殺しにしているに過ぎない。その龍興一人がその気になったところで、越前の大家朝倉家がその重い腰を上げるか、どうか。


「お市どの。…朝倉家が本当にただでの同じ名家の(よしみ)だけで、龍興がごとき悪逆者を飼うわけはない、そう思いませんか?」

 帰蝶の言葉つきはいぜん、刃物のように鋭い。

「あなたは『血』の力を甘く見ています。伊豆へ配流された鎌倉の武衛(源頼朝のこと)の(ためし)を見ても分かるように、流離(さすら)いの武家貴族のもとには、とかく有象無象の落人流人(おちうどるにん)が集うもの」


 帰蝶の言うことも一理ある。美濃国主の座を斎藤家は追われる形になったが、そこにそっくり織田家が据え変わるだけではない。同じく国を追われて恨みに思っているものがいるどころか、不遇に耐えてじっと息を潜めているものも領国内にいないとは言い切れない。


「加えて、龍興の生母は、あなたが嫁ぐ長政の父の妹です」

 市は、うめくように息を詰めた。つまり、市の夫となる浅井長政と渦中の斎藤龍興は、従兄弟同士と言うことではないか。

「お市どのもご存じの通り、近江浅井家は帰趨(きすう)(さだか)かならざる不安定な御家柄。美濃と戦うなら、龍興めは隣国、近江の国の調略に必ずかかりましょう。してみれば遠からず、あなたや長政殿の前に姿を現すはずです」


「えいさ、えいさ」

 と、掛け声を合わせつつ、そのとき人足どもが何かを運び込んできた。

 それは、人でも入りそうなくらい腰の膨らんだ大釜であった。


「帰蝶さま、あれは何に…?」

 お市が驚いて目を見張っていると、

亡父(ちち)の遺品です。おやかたさまから譲り受けてきました」

 すると帰蝶はなぜかその冷たい眼差しを輝かせて、娘のように声を弾ませた。

「この稲葉山の庭で、かつて人を煮殺した釜ですよ」

「ぐっ」

 さすがのお市も、これにはえづきそうになった。


 実は、この夏の稲葉山入城の折である。

 城の庭にこの大きな釜がいくつも据えてあるのを、龍興を追い出した信長が見つけたと言う。


「お()ち飯でも炊くのか」

 あまりに見事な大釜だったので信長は、出陣の際のふるまい飯でも炊き出しするためのものかと思ったのである。

「さすがは山城守だわ。見事なる心がけだでや」

「それがさにあらずや、殿」

 そこであわてて斎藤家の旧臣だったものが進み出てきて、真実を話したと言う。

「これは反逆者を、生きたまま煮殺す釜にて」

 放っておいたらこれで飯を炊かれてしまうところであった。なので仕方なく話したのだが、これを聞いてさすがの信長も胸が悪くなったらしい。

「この信長には不要だでやッ!急ぎ取り片付けえッ!」


「…で、その(おそがー)い釜が、なぜここにあるのでしょうや…?」

 もはやお市の顔からも、血の気が引き始めている。

(わらわ)が、おやかたさまにお話をして譲り受けたのです」


 話を聞いただけで、胸が悪くなりそうだ。隣国でそんな恐ろしいことが日々行われていたとは。生きたまま人を煮殺すなど美濃の蝮のふたつ名は、やはり伊達ではない。だが、それを涼しい顔で信長からもらい下げる帰蝶もまた、さすが蝮の血筋である。


「かようなものにこれ以上、一体、どんな用事が!?」

 帰蝶は恐ろしく屈託ない笑みを見せて、当たり前でしょうと言うように、にこりと笑った。

「右京大輔を(とら)まえたら、これで煮殺すのです」


「もっ、もうッ!お腹がいっぱいだわッ…!」

 これ以上、あそこにいられる気がしなかった。

 ようやく縁談が決まった自分が、まさか人を煮殺す片棒を担がされるとは、思ってもみなかった。


「おっ、お市さま!今度はどこへッ!?」

「遠乗りだでや!しばらく捜すなッ!」

 あわてて追いすがろうとする火偸と埋火を振り切って、お市は愛馬を責めた。


(縁談か…)


 長良川を渡る秋風に吹かれながら、ふと、そのことを想う。


 正直、数えきれないほどの不安はある。だがついに、この織田家を出る時が自分にもやってきたのだ。いざ輿入れとなれば慣れ親しんだ何もかもと、その日限りの別れをするのだと思うと、日頃見慣れた愛馬のたてがみの流れですらも、どこか愛おしいものに見えるお市であった。






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