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花繚(かりょう)の動乱  作者: 橋本ちかげ
第2章 浅井市
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第二話 忘れられた縁談

「明智十兵衛は、(わらわ)の古い馴染みですよ」

 話を聞きつけて、言下に否定したのは帰蝶である。

「間者と言うなら見込み違いです。あの男が、斎藤家には与するはずがありません」


 市を呼んでいたのは、この信長の正室だったのだ。濃姫たる帰蝶は、亡父の遺した稲葉山に再び戻ることが出来て、このところすこぶる機嫌がいいと言う。


「かつて亡父(ちち)と共に滅ぼされた明智城を憶えていますか。あれは、その生き残りなのです」


 斎藤道三に味方をして滅ぼされた明智城の主、明智光安(あけちみつやす)の甥があの十兵衛光秀であると言う。謀反人として国を追われた光秀は、斎藤龍興が治める城下では確かにお尋ね者であっただろう。


「へ…へーえ、あんな端正な方が帰蝶どののお知り合い…」


 と、市は不遜(ふそん)なことをつぶやいたが、言われてみれば鼻筋の通った顔立ちなどは似ていなくもない。


「いとこ同士です。幼い頃などは、よく遊んでもらいました」


 そのとき帰蝶がどんな子供だったのか、一体どうやって遊んでもらったのか、市には想像もつかなかったが、あの男ならどんなことでも如才なく何でもこなすだろう。そんな気がした。接した時間は短いが、あの明智十兵衛光秀と言う男、他にも色々、器量がありそうである。


「十兵衛のことは良いのです。多少、話に取り留めはありませんが、生き方に抜かりのない男です」

 それより、と、帰蝶は話題を変えたがった。

「今日、呼び出したのは、市どの、あなたの生き方のことですよ」


「わたしの…生き方?…でござりまするか」

 市は目を丸くした。

「それが何か」

「もう二十歳を越えましたね?」

「二十一に。それが何か?」

 怪訝そうに言い返すと、市は唇を尖らせた。


 普段は特に痛いところだと思っていないが、触れられたくないことである。十五で嫁に行くのも珍しくない時代に、市にはいまだに縁談がない。


 …ないわけではないのだろうが、煙は立っても火は起きないと言うように、これまでにまとまった試しがないのである。


 口にしたくもないが、薄々、何が原因かは自分で分かってもいた。だが例えそれが帰蝶であろうと誰であろうと、それを具体的に言葉にしてみせて欲しくないのである。


「お市どの。…あなたは若く見えます。恐らく、当分はこのままでしょう」

「このままとは!?どこにも貰い手がないと仰りたいので!?」

「違います。…あなたは、若く見える、と言ったでしょう?」

 帰蝶は言うとまた、そろりと蛇のように滑り寄ってきた。

「さればこそ信長(おやかた)さまは、輿入れを遅らせて来たのでしょう。…お市どの、あなたもよう辛抱しました。このように美しく華やいでいても、清く正しゅう。他の男性(おのこ)に脇目も振らず」

 と、ひんやりとした指で手首を握られると、市は背筋が寒くなってきた。

「はっ、はあっ!?…辛抱って?はっ、話が見えんでかんわっ…市がいつ、辛抱など致しましたッ…!?」

 ふふ、と笑うと、帰蝶は思いがけないことを言った。

「二年越しの縁談です。…この上は何をおいても首尾よう運びませぬと…ね?」


「あっ、兄上えッ!いつ、この市めに縁談などおッ!?」


 出し抜けに質問を浴びせられて、さすがの信長も眼を丸くしている。

 そこはまだ、普請中の岐阜城の外曲輪(そとぐるわ)にしつらえられた急造の角場(かくば)(射撃場のこと)である。


 信長は例の六匁筒を試射しようとしているところであった。射撃を行う膝台に控えているのはなんと、先ほど町辻で別れた明智光秀である。


「おおッ、これは先ほどの鉄炮好きの姫君」

「妹だでや!」


 信長の方へあごをしゃくって市がするっと衝撃の事実を述べたので、光秀は目を丸くしていた。が、今はそれどころではない。


「しゃッ!このうつけものッ、どこへでも顔を出すでにゃあわッ!」

 信長は額に青筋を立てて叱りつけたが、他の者ならばその場で手打ちである。

「縁談など、二年も前にとうに言い渡したであろうがや!何を今さら立ち騒いでおるでや!?」

「二年前…に…?」

 信長も帰蝶と同じことを言っている。

 しかし、まったく心当たりがない当の市であった。

「兄上、そのう…相手は…この市はどこへ嫁ぎますのやら…」

 恐る恐る尋ねると、信長は地団駄踏みそうに怒り狂った。

近江国(おうみのくに)ッ!名は浅井長政(あざいながまさ)ッ!」


「…まったく記憶にない?」


 心配そうな埋火に向かって、市はうなずいた。正直、さっきは言えなかった。たぶん、非常にまずい。そのことを信長に話していたのなら、冗談ではなく本当に首を()ねられていただろう。


「埋火は憶えておりますよ…」

 埋火は心底、哀しそうな顔をした。

「近江浅井家と言えば、藤原北家(ふじわらほっけ)につながる名家。されど、お市さまはとても嫌がられておりました…」

「誰が!?いつ!どう!嫌がったとッ!?」

 自分のことの癖に市は、埋火に喰ってかかった。すると、

「お市さまは、お相手さまのご幼名からお聞きになられたのです。確か浅井長政どのは、猿夜叉丸(さるやしゃまる)さまと言うご幼名だそうで」

 どこから聞きかじったのか、市はそれを聞くと、こう言ったのだと言う。


「さっ、猿じゃと!?猿はいかんで!猿に嫁ぐなどずええええったい嫌だわッ!」


 わけあって、猿が一番苦手な市である。


「浅井長政どのは、湖北の勇将。十五歳にして大いくさをこなし、そのご器量並々ならぬと評判の高い方ですよ…」

「なぜそれを早く言わぬのだわ!?さーっぱり、頭に残らぬでかんわッ!」

「身の丈六尺(約一八十センチ)の偉丈夫にして、お顔立ちも涼やかとのお噂」

「だ・か・ら二年前に申せッ!」

 埋火は泣きそうな顔になった。

「申しました。されど、市さまは遠乗りに行くと申されて。詳しくは後で聞く、と…」


 で、それっきり、忘れていたのである。忘れる市も市だが、恐らく忘れたのは、その話が出てから、なんの沙汰もなかったからに他ならない。


「…二年遅れたのは理由があるのですよ、市さま」

 と、言ったのは火偸だ。火偸は眉を八の字に潜めて、この不毛なやりとりを何ともやり切れぬ気持ちで聞いていたのだ。

「なぜ二年も遅れたか!?」

「それはひとえに、信長公のご政情のせいでござる」

 火偸が声を潜めたのも、無理もない。あまり大っぴらに話してはならないことだが、市が納得しないのでやむなく話すのである。

「まず、またご城下にも来たはずでござる。室町御所さまの使いが」

「明智十兵衛どののことか?」

「左様」


 火偸の話では、実はあの明智光秀が信長のところへ現れたのは、これが初めてではないと言う。岐阜城より前の小牧山城時代から、明智光秀は足利将軍の密書を携えて、信長に協力を要請に来ていたのだ。


「現状、京は動乱の嵐の中。…三好三人衆と松永久秀なる荒大名に牛耳られ、御所の命は明日をも知れませぬ」


 そこで将軍は手当たり次第に諸国の有力な大名に上洛を促し、助けを求めているのだと言う。信長の元にも、足しげくその使いが来て京都の惨状を訴えていたのだ。しかし、破竹の勢いと言われる信長ですら、上洛の軍勢を遣わすことなど容易に出来るものではない。


「それにはまず、何よりも美濃を落とさねばなりませぬ」


 信長は、それに最も苦戦していた。そこで二年前、美濃の反対側の隣国である浅井家と国交を結ぼうとしたのだ。東の尾張、西の近江から美濃を挟み撃ちしようと言う策略である。


「それで二年前、縁談が出たのだな?」

「ご明察」


 しかしそれは、上手くいかず棚上げになってしまった。それと言うのも実は、近江浅井家の後ろ盾になっている同盟国である越前朝倉家が、織田家との国交に難色を示したからだ。


「朝倉家は、信長公の上洛を望んではおりませぬ」


 その時点で国力で言えば、織田家より朝倉家が上。そう判断した浅井家は、信長に協力しなかったのだ。


「信長公はそれで、二年かけて自力で美濃を陥落したのでござる」


 勢力図は一変した。さらに京都への南の陸路である北伊勢(きたいせ)にも侵攻を開始し、その勢いは朝倉家をしのぐほどになったのである。


「で、浅井家がなびいたと。…釈然とせぬだわ。それではただの風見鶏ではにゃあか」

「それも詮のないこと。浅井家にも宿敵がおりまする。元の主家、六角家でござる」


 浅井家は、長政の祖父、亮政(すけまさ)の代に京極家から独立し、六角家と誼を通じた下剋上の家柄なのだそうだ。常に六角氏に背後を狙われる浅井家と、美濃から出て一刻も早く上洛したい信長との利害がついに一致したのである。


「相分かった。…つまり浅井家はまだ、信用あたわぬ家だでや。日和見しだいで敵にも味方にもなると。そこでこの市を嫁がせて、よろしゅう調略せよと言うことであるな?」

「…おおむね、その通りに。少し、荷が重すぎる捉え方でござりまするが。しかしお市さまが役割は、それだけにはござりませぬ」

「まだ、何かあるのかや?」

 と市が問うと、火偸はさらに声を潜めた。

「…実は、ある曲者に目を光らせて欲しゅうござる」





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