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花繚(かりょう)の動乱  作者: 橋本ちかげ
第2章 浅井市
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第一話 岐阜

 そのとき、彼方に一発の銃声が響いた。

 遠雷(えんらい)の音に似てそれは、かすかに余韻を残して長く尾を引いた。


 永禄十年(一五六七年)の秋のことである。


 野分(のわき)が去った濡れた青空を、うろこ雲が覆っている。水をたっぷり沁ませた刷毛で、薄く伸ばしていったような秋雲がどこまでも漂っていた。あの銃声さえなければ、麗らかな秋の小春日和である。


 雨上がりの野道の湿った枯れ草を踏みしめて、物売りの女が(はし)っていた。艶めいた黒髪を布巾でまとめた埋火(うもれび)だ。忍術で引き締まった身体にもうっすら脂が乗りかけて、娘の面影も薄くなっている。


 たすき掛けした小葵(こあおい)の小袖から飛び出した二の腕も、裾からはみ出た太腿も、はち切れそうに張って、遠目でも目立つほどに白い。


 蝶が(はね)を広げたような例の紅痣(あかあざ)はそのままだが、ぽってりと厚みをました唇にも、あどけないばかりでない色香が匂い始めていた。


 ふいに轟いた銃声は埋火の足を停め、その息を詰まらせた。

(まったくどこで誰が鉄炮(てっぽう)など…)


 鉄炮と言えばこの時代すでに、珍しくなくはなりかけているが、まだれっきとした大名道具だ。その辺りの辻で見かけるようなものではない。まして鉄炮火薬(たまぐすり)の炸裂する音など、聴きなれているものも稀なのだ。


 埋火が顔色を喪ったもの無理はない。その行く手にはなんと、自分が守り役を仰せつかっている織田家の姫君がいるはずなのだから。


 主のいなくなった破れ寺の、荒れ果てた境内になんと珍しい人だかりが出来ている。きな臭い匂いとうっすらと空気に紛れた黒煙が、まだ残っている。どうやら鉄炮はここで、火を噴いたようだ。


 埋火が駆けつけた時にはすでに、そこで起こったことは()わっていた。


 果たし合いである。

 古い大銀杏の木陰で銃創を負った武芸者らしき派手な小袖の男が、弟子たちに介抱されているまさにそのときだった。肩の付け根から血を滴らせて、仰向けになった男の傍らには刃渡り三尺五寸(約百五センチ)の大太刀が放り出されている。


 まさかこれで、鉄炮(てっぽう)と渡り合おうとしたのものか。

(無茶だ…)

 埋火は密かに呆れた。


 一見無謀に見えるが、当時の兵法者の戦いと言うのは概してこう言うものである。後年は剣術使いばかりが隆盛を極めていくが、槍、薙刀、弓、変わったところでは鎖分銅をつけた薙鎌(ないがま)で戦おうと言うものまで入り乱れていたのが戦国の兵法者であった。


 そう言う連中が鉢合わせて、いざ腕試しとなるのだから、相手が自分と違うどんな武器を使おうとひとたび勝負となれば、そこで退くことはかなわない。


 だが、鉄炮を使う方も使う方だ。

 足軽銃隊が筒口を並べて狙うならまだしも、鉄炮がたったの一丁なら勝つ機会(しお)はただの一度きりである。


 例えば十間(約十八メートル)も相手と離れていたとして、たったの一発で致命傷を負わせるか、動きを停めるところに必中させることが出来なければ、命を奪られるのは、こちらの方である。


 銃の扱いは難しい。火薬の調合ひとつ間違えただけでも、弾丸は飛び出さないことすらある。それどころか銃身を少し下に向けすぎただけで、銃弾はころりと筒口から落ちてしまうのだ。むしろよほど胆が据わっていなければ、この銃に自分の命を預けることなど出来はしないに違いない。


「申し!」


 まだ果し合いの決着のどよめきが鎮まらぬ満座で、声を上げたものがいた。一瞬でその場の誰の注意をもひきつける高く澄んだ声である。埋火は嫌な予感がした。


 見ると雑多な見物人の頭ごしにひらひらと白い手が挙がっていた。案の定それは、姫上臈(ひめじょうろう)のたおやかな膨らみをした美しい手である。


「おっ、お市さま!」


 それを見て、埋火は思わず悲鳴に近い声を漏らしてしまった。血なまぐさい見物の人だかりを掻き分けていそいそと出てきた美しい若衆なりの姫君に、今度は別の意味のどよめきが広がる。


 まさかここにいるのが、今をときめく織田家の姫君だとは誰も思うまい。


 艶やかに結われた尾の長い豊かな黒髪に砂埃に汚れた乗馬用の革袴、桃色の大輪が咲き誇る躑躅柄(つつじがら)の小袖をたすき掛けにした市は、恐らく日課の愛馬の遠乗りでこの決闘を見つけ、そのまま野次馬になったのだろうが、目立つことこの上ない。


 もはや二刀を差していたとして、美青年の若衆には見えないと言うことは間違いないだろう。


 二十一歳になっていた。

 かつて蕾だった何もかもが、今や誰の目にも分かるほどに咲きほこっている。

 織田家の姫君に特有の色の白さも、今や匂うような(まろ)みを帯びていた。兄の信長譲りの美しい額の秀でた卵型の顔形にも、長くしなやかな手足にも、そこはかとない嫋やかなふくらみと潤いが備わっている。

 だがやはり何より衆目を惹くのは、大きく開いた切れ長の瞳の澄んだ輝きだろう。


「いかにも御美事なる腕前!ぜひ!ぜひ!さきの立ち合いについて聞きたし!」


 興味のあるものなら何でも吸い込んでしまいそうに煌めく愛らしい眼差しを向けられて、それをむげに出来るものはそうはいない。


「鉄炮武芸者どの…いや、ここは炮術師(ほうじゅつし)どのと呼ぶべきか!」


 鉄炮を武芸として渡り歩くものをこの時代、炮術師と言う。

 さすがそこまで知っている市の武骨な好奇心は変わっていない。ひとたび興味あるものを発見すると、躾けられたたしなみも忘れて、まっしぐらになってしまう性格もそのままである。


「当今は、鉄炮放ちも果し合いをされるのであるのだなあ。狙いすましたがごとく肩口を撃った先刻の一合、いかにも見事なる仕業だでや。しかし、あれは本当に狙うて撃ったのかえ?」

「姫さまッ、はしたなき物言いを!お控え下さい!」


 あわてて埋火が間に入る。そもそも身分ある家の姫ともあろうものが無頼者の武芸者などと、直に口など利くものではない。どんな後難があるか、分かったものではない。

「あの、突然の無礼、お許しをば…」

 心配げに埋火は、市が話しかけた当の相手の様子をうかがった。

「いえ、気になさらずとも良く(そうろう)

 だがそこにいたのは、思ったよりも落ち着いた雰囲気を持った総髪の武家である。見たところ四十年配と言うところか。ことによってはもう少し若いかも知れない。


 男は発射した後の鉄炮を念入りに掃除していたのだ。その丁寧な手つきといい、着古した旅装の着こなしといい、鼻筋の通った顔立ちといい、この男からは並みの放浪者にはない『品』が感じられる。


「左様、今のは狙うて撃ち申した。…珍しき鉄炮好きの姫御前(ひめごぜ)

 その風貌にも劣らぬ端正な武家言葉である。それにしても男の話しぶりには、そこはかとない京訛りが感じられた。一目で余人と違うと分かる他国者である。


(何者だろう)

 埋火はいっぺんに怪しんだ。

 熱心に鉄炮について尋ねる市を、面白がりこそすれ、煙たがる様子も見せない鷹揚(おうよう)さも不可解だ。


 武芸者と言うものは、往々にして粗大で傲岸なものが多い。例え武術とは言え、一芸を飯のタネに諸国を渡り歩こうなどと胡乱なことを考える輩は、大抵がいっぱしの山師である。


(まさか間者…!)


 埋火が不審を募らせる間にも、市と炮術師とのやりとりは続く。

「鉄炮は嫌いではにゃあで。音は大きゅうて往生(おうじょう)こく(困る)が、刀や槍の争いは、まっと血なまぐさくてかなわんで!さっきの果し合いみたいに、ちょうど肩を狙うて勝負を終えたはよくしたもんだで」

 市が自分の肩口を叩いて見せると、男は謙遜するように首を振った。

「肩口に当たったは、偶然です。…鉄炮は、それだけ不安定なもの。板の的相手にいくら町撃ち(試し撃ちのこと)をして鍛えたところで十発に一、二発は外しまする。そうなれば、いくさ場で当てられるは精々、十発撃って六、七発が良いところ」

「十に六、七発も!いや、それだけ当たれば大したもんだで!兄上めが、よう鷹狩りで撃ち放しておるが中々上達せぬ、思うように当たらぬ、などとぼやいているのを聞くだわ。これは堺筒かや国友筒かや?」

「国友筒ですな。これは六匁玉(ろくもんめだま)(口径約十六ミリ)を撃ち出すもの。上手く当てれば、流行りの桶側胴丸(おけがわどうまる)(鉄板入りの胴丸)も貫きまする」

 男の口調はまるで、武具商のようによどみない。諸方で喧伝し慣れているのか、これなら放浪などしなくても仕官の口もありそうである。

「詳しゅうござるな。そこまで知っておられるところを見ると、お兄上は鉄炮商いでもなされておられるのかな?」

「いや、当家は売る方ではにゃあて、買う方でかんわ!」

「ひっ、姫様!姫様ッ!もうっ!本当にもう!その辺で…!」

 そこでたまらず埋火が割って入った。この分では、べらべら何もかもしゃべってしまうだろう。


 こんなところで市が、織田家の姫君(むすめ)であることを話し出したら、とんでもないことになる。


「ほう、姫君が家は買う方にござるか…なるほど」

 男はすでに、興味を見せている。食い詰め者の武芸者のように図々しくない、とはみたが、得体が知れないことは確かである。


「姫君、その!火急のご用事が…」

 埋火はあわてて言った。

「火急の用事?…今日は、何があるとも聞いてはいないが」

 鉄炮に夢中の市は、まったく空気を読んでいない。

「あるのです!火急の用事が!あるのですから!とにかく、来てくださいッ!ほかに構ってる暇はありません、そのようなわけで御仁、不躾ながらこれにて失礼をばッ!」


 埋火は必死に、市からこの炮術師を引き離そうとしたが、時すでに遅かった。鉄炮道具を仕舞い終えた男はなんとさっさと立ち上がって、市がつないでおいた馬の口をどこからか曳いてきていたのだ。


「御城下へ戻られるのかな?…もしよろしければ、街の口までぜひご案内ありたい」

 もはや完全についてくる気である。

「いえ、その姫君は火急の用事が…」

 と、埋火が言い募るが、厄介なことに市は二つ返事だ。

「承知した!案内は、任せよ。ためになる話を聞いた礼だわ。炮術師どのは、初めてか、『岐阜(ぎふ)』は」

 市は含みのある言葉で、尋ねた。男は、いや、と手を振ってから、それに気づいたように、

「左様、初めてに候…『岐阜』は。ゆえに、都合の許す限り、よしなにお引き回しのほどを」

 男は謙虚そうに頭を下げた。ますます油断ならぬ、と埋火は思った。

 強いるでも強いられるでもなく、さりげなく人の懐に飛び込むことの出来る人間こそ、間者に最も向いている。


 岐阜はまだ、この世に生まれたばかりの城下であった。

 言うまでもなくかつては稲葉山城下(いなばやまじょうか)井ノ口(いのくち)を称したのである。


 さる八月十四日、織田信長は稲葉山城陥落のための大軍を発した。

 満を持しての出兵だった。四年越しにあらゆる手立てを尽くして、美濃から斎藤家を追うときがやってきたのである。

 小越の渡しを渡河した織田勢は五千余。城下である井ノ口を容赦なく焼き払い、稲葉山城の水の手を切って当主・斎藤龍興(さいとうたつおき)を降伏させた。


 斎藤道三が譲ると語り遺した稲葉山城を、織田信長はついに手に入れることが出来たのである。入城と同時に、信長は改称を行い、新たな本拠を『岐阜』とした。これは遥か昔、周の文王が岐山に兵を挙げ、天下を平定したと言う中国の故事に基づいている。信長の野望をそのまま名づけたような城と街であった。


 ちなみに焼け野原になった井ノ口も、信長によって一気に復興が進んでいる。

 古釘や廃材が無償で配られ、建物の復旧も進んでいる。

 信長が美濃攻略に使っていた小牧山城からも人手が移されているために、どこもかしこも、普請場になって人の賑わいが戻り始めていた。


 とりわけすぐに布令(ふれ)が出された『楽市楽座』のお達しにより、他国からも商人たちが入りやすくなったので辻には自由に市が立ち、見世棚(みせだな)往来物(おうらいもの)の食べ物屋台も並んで、連日お祭りのような騒ぎだ。


「これは賑々しい」

 市が目抜き通りを案内すると、男は屈託なく微笑んだ。

「さすがは今をときめく織田信長公。勢いのほどがうかがえますな」

「で、あろう。ふふふっ、で、あろう!」

 自分がほめられたのではないのに、市はなぜか鼻高々だ。

「どうじゃ炮術師どの、今がお名の売り時だわ。兄上が…(埋火が袖を引っ張っている)いやいや、織田信長が城下で名を売ったれば、末は天下一の腕前と持て(はや)されることも夢ではにゃあで!」

「なるほど。確かに、押し出しは派手になるでござろうな。…されど、かつての井ノ口こそは、尚武(しょうぶ)(武術を奨励する)で聞こえた土地柄にて」

 相和(あいわ)すると思われた男は、冷ややかに釘をさしてきた。

「む…」

「槍の名人であった道三公もさることながら、跡を継いだ義龍公(よしたつこう)もかの戸田勢源(とだせいげん)どの(小太刀の名人)を招いたり、武にて城下を引き締めようと心を砕いていたご様子」

「…御仁、かっての井ノ口をご存じですか。…よもや国追われた斎藤家の間者にてはありますまいな?」

 埋火が鋭くそこへ割って入る。ずっと怪しいと思っていたが、この男やはり、新造の城下に放たれた細作(さいさく)(工作員のこと)ではないか。

「いや、ご懸念は無用。…身は、その義龍公に城を落とされ、国を追われたものにて」

 しかし男は、疑われて怒る様子もなく、自らの素性を明かす。

「その義龍公が亡くなり、先達て子の龍興公が国を追われた。ゆえにもはや戻っても、すわ曲者ぞなどと、槍玉に挙げられることはあるまいと思った次第。…疑いを持たれたなれば、ご容赦ありたい」

 と、男は、脇へ逸れる小路を見つけると、曳いてきた市の馬の口をさりげなく放した。

「ではそろそろ、拙者はここにて。…とりあえず怪しまれぬよう、名は明かして去りましょうぞ。最前から話そうと思ってはおり申したが、身は兵法宣伝目当ての武芸者にはあらず」

 男は物柔らかに微笑むと、去り際、突拍子もないことを言った。

「今をときめく信長公に天下泰平を売りに、参り候。…身は室町御所(むろまちごしょ)足利義昭(あしかがよしあき)さまが使いにて、明智十兵衛光秀あけちじゅうべえみつひでと申す」






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