第十三話 幼蕾淡くほころぶ
「うむ、この泥鰌汁に違いないだわ。藤吉郎め、よく仕立てたわ!」
とかく、今夜の藤吉郎は満点である。特製の泥鰌汁も、信長に舌鼓を打たせた。
「で、何をむくれとりゃあす、市よ。こたび、輿のことを思いついたは、おのれめの手柄であろうがや」
「泥鰌汁が…」
と言ったものの、口に合わない、とは言えない。藤吉郎が自慢するだけあって、美味しい。だがそれだけに、悔しかった。別に料理などで、藤吉郎と競う気持ちなどないのに。
するとふいに信長が言った。
「妹よ。…おのれめは、あの禿ネズミが羨ましきか?」
「なッ!なッ!言うに事欠いて何を仰りゃあすかッ!あーんな薄汚い禿ネズミなどに!そんなことッ!」
市は目を剥いて高声を上げたが、信長は別して怒らず、何もかも分かっているのだ、と言うように澄んだ目をしていた。
「隠さずともええだわ。…要はお前は、あの男が羨ましいのだわ。藤吉郎め…あやつは、夢中よ。今、なしたいことがため、裸一貫、身を投げだしてやりきることが出来る。さればこそ、面白いのだでや」
「あっ、兄上は!どうせ、あの男が使い勝手がようええから、連れておりゃあすのでござりましょう!?」
市が思い切って言うと、信長は意外にも真剣な顔でかぶりを振った。
「いや、それは違うでかんわ。はっきり言おう。…実はこの信長もあの男が羨ましいからだわ」
「あっ、兄上が!?まさかそんなッ、まさかこの市をからかっておりゃあすか!?」
到底、信じられなかった。確かにある才能はあろうが、あんなみすぼらしい男を、今や東海でその名を知らぬと言われる織田信長ともあろう傑物が、どうして羨むことなど、出来るだろう。
「うつけめ。よく聞くがいい」
信長は幼子に言い聞かせるようにした。
「あの男はのう、肚をくくっておる。だから駄目でもそこで元々、天下を枕にいつでも横死せばええと思うて何でもやっとりゃあすのよ。生きざまに迷いがにゃあで。この信長にはまだ、それは出来ぬ。あやつと違い、生まれながらに人の殿ゆえな。だがその程度の分際では、この信長の望みはかなわぬ。だからあやつを見て、学んでおるのだわ」
「嘘じゃッ!嘘じゃ、嘘じゃ、嘘じゃッ!」
癇癖を露わに、市は叫びたてたが、信長は咎めたりはしない。自分と同じものが、市の中にも必ず眠っている、この勘の鋭い英雄は、すでにそれを見抜いていた。
「お前はまだ、生き方を迷うておるのだろう?」
顔を真っ赤に上気させて、涙目になるほどの癇癪が収まったころに、信長は問うた。兄の言葉は正鵠である。荒れ狂う鷹が一矢で射止められたときのように、市は目を見開いてから、やがて、おずおずとうなずいた。
「あえて言う。お前は、この信長がようには生きられぬ。だがこの信長もお前のようには生きられぬ。藤吉郎も同様だでや。…たとえ、この身を天魔に捧げるほどにそれを望んだとしてもな。だが人間、天に通ずる道はひとつとは限らぬ。迷うても、迷わぬよう、おのが道を行くがええでや、市よ」
「迷うても、迷わぬように、でござりまするか」
市は、おうむ返しに聞き返した。さっきの癇癪はすっかり収まり、今度は迷い子のように上目遣いで、信長の答えをうかがった。
「ああ、迷わぬよう、迷うのだでや。この兄めも、そうしておる」
「迷わぬよう迷う…とは!?市にはよう分かりませぬ!」
「すぐに分かるときが来るだわ」
薄いひげの口元をほころばせると、信長は市の頭を慈しむように撫で回した。
「ともかく今宵の第一の手柄は、お前だわ。ほめてつかわす。…何か物をくれてやろうと思ったが、吉乃からもう、守り刀をもろうたか」
「い、いや!これは!そのう違うと言うかなんと言うか!」
袂に差したままになっていた短刀の柄頭を市は、あわてて隠した。
これは帰蝶が無理やり、市の手に押しつけていったものである。口が裂けても誰からもらったとは言えはしない。
「そうか。では最後に一つ、教えて遣わそう。…市よ」
と、信長は思わせぶりに言った。
「この世でもっとも迷うことがなき者は、どんな者だと思う?」
「そっ、それは!?…えっ、分かったっ、天下を統べる者!天下人にてござりましょうか!?」
「違うな」
苦笑すると、この後の天下人は、人差し指をおのれの唇をふさぐように立てた。まるで他に聞かれたくない、二人だけの秘密を話すかのようである。市が戸惑うのを見飽きると、信長はさらに顔を近づけて、こう言った。
「これから死ぬ、と決まっている者よ」
死のうは一定
忍び草にはなにをしょぞ
誰もいなくなったのを見計らって、市は娘の高い声をか細く出した。
その小唄は、信長が暇さえあれば口ずさんでいる今様である。
(人はいずれ必ず死ぬ)
死が決まっていることなら、誰にでも訪れるのが死なら、その生き様を忍んでもらうためには、何をして生きたらいいんだろう?
信長が歌うのは、自分に問いかけるためだ。でも兄はもう、知っているのだ。死が目前に見えているものが誰よりも迷うことなく、何をすべきか分かっている者なのだ、と。
小牧山にひときわ明るい、夏の月の光が降りそそいでいる。
今夜はもう、眠れそうにない。
皆が寝静まるのを見計らって、市は本丸の大櫓に出ていた。
小牧山で最も高い場所にあるこの本丸に、信長は大きな展望台を取りつけた。月明かりは這うように、まだ造りかけの大手道を照らし上げている。嘘のように涼しい夜風が、小袖の中で汗ばんだ肌を冷やしていた。
あれから信長はそのまま、吉乃の寝所を訪れている。夜半まで、楽しく笑いさざめく声が聞こえたが、もうその明かりも絶えた。今頃はもう、二人とも寝静まっていることだろう。
「お市どの、もう一度、この吉乃からも感謝の言葉を言わせて」
この手を、吉乃が握ったそのぬくもりを、市は憶えている。温度のない月明かりの下でも、あの温かみは、残り香のようにこの皮膚に宿っていると思う。
(吉どのは、もう迷うことはあるまい)
身体が生き続く限り、この小牧山で、信長のことだけを想う。信長にしてみればそれが、たまらなく愛おしいのだと思う。自分が羨むのは結局、その澄んだ迷いのなさなのだ。
それに比べると自分は、何もかもない交ぜすぎる。若さと気負いだけがありあまっていて、何をしたらいいのか分からない。一見乙女らしく楚々と膨らんだこの胸のうちは何かどろどろした、とにかく濁ったものばかりだ。
だが市は知らない。迷いがない、と言うことはもう、択べるものがないからなのだ、と言うことに。
「この吉も迷いましたよ。ちょうど、お市さまくらいのときに」
そう言えば吉乃も、秘密を明かすように市に話してくれた。なんと吉乃は人の妻だったのだ。
信長のものになって吉乃と名乗る以前は、長桜村と言うところに住む土橋弥平次と言う武士に嫁していた。
「吉乃が十九のとき、弥平次は死にました」
このとき弥平次は、明智一族に味方していた。
斎藤道三を長良川の戦いで討ち取った義龍は、返す刀で道三に味方した明智一族を狙った。明智城攻めである。このときのいくさで弥平次は槍を受けそこない、具足の胸板を突き貫かれて死んだのだ。享年二十六。未亡人となった吉乃は一人、生駒屋敷に匿われた。
「それからは、寄る辺のない日々です。もはや生きているのか、死んでいるのか。毎日が砂を噛むようでした。…信長さまに出会うたのは、そんなときです」
吉乃は信長を慕うようになってからも、前夫のことなど話すつもりではなかった。真夏のように強烈な信長といると、他の誰かのことなどいつも忘れてしまいそうになるからだ。
だが信長はすでに明智城のことも、吉乃の前夫の戦死もすべて知っていた。知っていてなお、そんなことなど忘れさせてやろうと、知らぬていで振舞ったのだ。
そんな信長の想いが健気で真っすぐで、吉乃は救われると同時に、その切ない優しさに胸を締めつけられるように想うことがあった。こう言うときは、哀しさが顔に出てしまう。
たった一度だけ、と許しを得て吉乃は、過去のことをどう思っているのかを信長に打ち明けたと言う。信長は分かっているとも、知っているとも言わず黙って、吉乃の思いのたけを聞き続けたと言う。
「誰もが必ず死のうわ」
やがて信長はたったそれだけ、吉乃に応えた。
「だがわしが死ぬときは、犬死ににあらあず。立派におのれの語り草となしてやろうわ」
「自分なら、悲しませはせぬ。あの方なりに、わたしを励ますために言うてくれたのでしょう」
市は目を丸くした。信長らしいと言えば信長らしいが、よく考えてみると慰めとも言えぬ慰めである。
「でもそう言う方なのです。…そして、それから何度も、危ういいくさをなされたのはご存じのことでしょうが、不思議と心配にはなりませんでした。なぜか心強くて…一緒にいると、太陽を背負ったよう」
吉乃の笑みは、どこまでも朗らかだった。
「それに、わたしが身を案じるといつも仰られるのです。『おのれは、この信長が死んだところを見たことがあるのか』と」
「あるわけにゃあわ!」
市は思わず、つっこんだ。
相変わらずとんでもないことを言う兄である。だが、そんな信長がいつも吉乃を安らがせてきたのだ。
「だから市どのも、見つかりますよ。迷いなく、択べる誰かが」
残響のように、市の耳朶に吉乃の優しい声音の名残がする。
その背に、ふわりと小袖がかけられたのは、そのときだった。
たった一人と見えた市の後ろに、埋火が控えている。小袖は、夜風に冷えた身を案じてこの忍びがかけてくれたのだ。
「吉乃さまからですよ」
市は咽喉の奥で小さく、声をかみ殺した。
この小袖は今日、小牧山に輿を入れたときに吉乃が身に着けていたものである。
咲き乱れる薄桃色の躑躅の花柄が、たおやかな吉乃によく似合っていた。
「もらってよいのか」
市は振り向かずに問うた。
「はい…この上はもう、この小袖を着ることはないでしょうから、と吉乃さまからのご伝言です」
「とても気に入った。…明日でよい、吉乃どのにはそう伝えてくれ」
「分かりました」
それから放っていると、埋火の気配はすぐに消えた。
(…寒いな)
夜風をしのぐのに、市は袖を通さず袂だけかい寄せた。ふわりと、甘ったるい果実の香がした。さっきまで近くで話をしていた吉乃の身体の匂いだ。不思議なことにその柔らかなぬくもりすら、まだそこに乗り移っている気がする。
吉乃は死ぬ。
この小牧山に移って三年、永禄九年(一五六六年)五月十三日のことだ。
その頃にはもう、市は娘ではなかった。




