表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
花繚(かりょう)の動乱  作者: 橋本ちかげ
第1章 幼蕾淡くほころぶ
13/87

第十三話 幼蕾淡くほころぶ

「うむ、この泥鰌汁に違いないだわ。藤吉郎め、よく仕立てたわ!」

 とかく、今夜の藤吉郎は満点である。特製の泥鰌汁も、信長に舌鼓を打たせた。

「で、何をむくれとりゃあす、市よ。こたび、輿のことを思いついたは、おのれめの手柄であろうがや」

「泥鰌汁が…」

 と言ったものの、口に合わない、とは言えない。藤吉郎が自慢するだけあって、美味しい。だがそれだけに、悔しかった。別に料理などで、藤吉郎と競う気持ちなどないのに。


 するとふいに信長が言った。

「妹よ。…おのれめは、あの禿ネズミが羨ましきか?」

「なッ!なッ!言うに事欠いて何を仰りゃあすかッ!あーんな薄汚い禿ネズミなどに!そんなことッ!」

 市は目を剥いて高声を上げたが、信長は別して怒らず、何もかも分かっているのだ、と言うように澄んだ目をしていた。

「隠さずともええだわ。…要はお前は、あの男が羨ましいのだわ。藤吉郎め…あやつは、夢中よ。今、なしたいことがため、裸一貫、身を投げだしてやりきることが出来る。さればこそ、面白いのだでや」

「あっ、兄上は!どうせ、あの男が使い勝手がようええから、連れておりゃあすのでござりましょう!?」

 市が思い切って言うと、信長は意外にも真剣な顔でかぶりを振った。

「いや、それは違うでかんわ。はっきり言おう。…実はこの信長もあの男が羨ましいからだわ」

「あっ、兄上が!?まさかそんなッ、まさかこの市をからかっておりゃあすか!?」


 到底、信じられなかった。確かにある才能はあろうが、あんなみすぼらしい男を、今や東海でその名を知らぬと言われる織田信長ともあろう傑物が、どうして羨むことなど、出来るだろう。


「うつけめ。よく聞くがいい」

 信長は幼子に言い聞かせるようにした。

「あの男はのう、肚をくくっておる。だから駄目でもそこで元々、天下を枕にいつでも横死(よこじに)せばええと思うて何でもやっとりゃあすのよ。生きざまに迷いがにゃあで。この信長にはまだ、それは出来ぬ。あやつと違い、生まれながらに人の殿ゆえな。だがその程度の分際では、この信長の望みはかなわぬ。だからあやつを見て、学んでおるのだわ」

「嘘じゃッ!嘘じゃ、嘘じゃ、嘘じゃッ!」

 癇癖(かんぺき)を露わに、市は叫びたてたが、信長は咎めたりはしない。自分と同じものが、市の中にも必ず眠っている、この勘の鋭い英雄は、すでにそれを見抜いていた。


「お前はまだ、生き方を迷うておるのだろう?」


 顔を真っ赤に上気させて、涙目になるほどの癇癪が収まったころに、信長は問うた。兄の言葉は正鵠である。荒れ狂う鷹が一矢で射止められたときのように、市は目を見開いてから、やがて、おずおずとうなずいた。


「あえて言う。お前は、この信長がようには生きられぬ。だがこの信長もお前のようには生きられぬ。藤吉郎も同様だでや。…たとえ、この身を天魔に捧げるほどにそれを望んだとしてもな。だが人間(じんかん)、天に通ずる道はひとつとは限らぬ。迷うても、迷わぬよう、おのが道を行くがええでや、市よ」

「迷うても、迷わぬように、でござりまするか」

 市は、おうむ返しに聞き返した。さっきの癇癪はすっかり収まり、今度は迷い子のように上目遣いで、信長の答えをうかがった。

「ああ、迷わぬよう、迷うのだでや。この兄めも、そうしておる」

「迷わぬよう迷う…とは!?市にはよう分かりませぬ!」

「すぐに分かるときが来るだわ」

 薄いひげの口元をほころばせると、信長は市の頭を慈しむように撫で回した。

「ともかく今宵の第一の手柄は、お前だわ。ほめてつかわす。…何か物をくれてやろうと思ったが、吉乃からもう、守り刀をもろうたか」

「い、いや!これは!そのう違うと言うかなんと言うか!」

 袂に差したままになっていた短刀の柄頭を市は、あわてて隠した。

 これは帰蝶が無理やり、市の手に押しつけていったものである。口が裂けても誰からもらったとは言えはしない。

「そうか。では最後に一つ、教えて遣わそう。…市よ」

 と、信長は思わせぶりに言った。

「この世でもっとも迷うことがなき者は、どんな者だと思う?」

「そっ、それは!?…えっ、分かったっ、天下を統べる者!天下人にてござりましょうか!?」

「違うな」

 苦笑すると、この後の天下人は、人差し指をおのれの唇をふさぐように立てた。まるで他に聞かれたくない、二人だけの秘密を話すかのようである。市が戸惑うのを見飽きると、信長はさらに顔を近づけて、こう言った。


「これから死ぬ、と決まっている者よ」




 死のうは一定

 忍び草にはなにをしょぞ


 誰もいなくなったのを見計らって、市は娘の高い声をか細く出した。

 その小唄は、信長が暇さえあれば口ずさんでいる今様である。


(人はいずれ必ず死ぬ)


 死が決まっていることなら、誰にでも訪れるのが死なら、その生き様を忍んでもらうためには、何をして生きたらいいんだろう?


 信長が歌うのは、自分に問いかけるためだ。でも兄はもう、知っているのだ。死が目前に見えているものが誰よりも迷うことなく、何をすべきか分かっている者なのだ、と。


 小牧山にひときわ明るい、夏の月の光が降りそそいでいる。

 今夜はもう、眠れそうにない。


 皆が寝静まるのを見計らって、市は本丸の大櫓(おおやぐら)に出ていた。

 小牧山で最も高い場所にあるこの本丸に、信長は大きな展望台を取りつけた。月明かりは這うように、まだ造りかけの大手道を照らし上げている。嘘のように涼しい夜風が、小袖の中で汗ばんだ肌を冷やしていた。


 あれから信長はそのまま、吉乃の寝所を訪れている。夜半まで、楽しく笑いさざめく声が聞こえたが、もうその明かりも絶えた。今頃はもう、二人とも寝静まっていることだろう。


「お市どの、もう一度、この吉乃からも感謝の言葉を言わせて」


 この手を、吉乃が握ったそのぬくもりを、市は憶えている。温度のない月明かりの下でも、あの温かみは、残り香のようにこの皮膚に宿っていると思う。


(吉どのは、もう迷うことはあるまい)


 身体が生き続く限り、この小牧山で、信長のことだけを想う。信長にしてみればそれが、たまらなく愛おしいのだと思う。自分が羨むのは結局、その澄んだ迷いのなさなのだ。


 それに比べると自分は、何もかもない交ぜすぎる。若さと気負いだけがありあまっていて、何をしたらいいのか分からない。一見乙女らしく楚々と膨らんだこの胸のうちは何かどろどろした、とにかく濁ったものばかりだ。


 だが市は知らない。迷いがない、と言うことはもう、択べるものがないからなのだ、と言うことに。


「この吉も迷いましたよ。ちょうど、お市さまくらいのときに」


 そう言えば吉乃も、秘密を明かすように市に話してくれた。なんと吉乃は人の妻だったのだ。


 信長のものになって吉乃と名乗る以前は、長桜村と言うところに住む土橋弥平次と言う武士に嫁していた。


「吉乃が十九のとき、弥平次は死にました」


 このとき弥平次は、明智一族に味方していた。

 斎藤道三を長良川の戦いで討ち取った義龍は、返す刀で道三に味方した明智一族を狙った。明智城攻めである。このときのいくさで弥平次は槍を受けそこない、具足の胸板を突き貫かれて死んだのだ。享年二十六。未亡人となった吉乃は一人、生駒屋敷に匿われた。


「それからは、寄る辺のない日々です。もはや生きているのか、死んでいるのか。毎日が砂を噛むようでした。…信長さまに出会うたのは、そんなときです」


 吉乃は信長を慕うようになってからも、前夫のことなど話すつもりではなかった。真夏のように強烈な信長といると、他の誰かのことなどいつも忘れてしまいそうになるからだ。


 だが信長はすでに明智城のことも、吉乃の前夫の戦死もすべて知っていた。知っていてなお、そんなことなど忘れさせてやろうと、知らぬていで振舞ったのだ。


 そんな信長の想いが健気で真っすぐで、吉乃は救われると同時に、その切ない優しさに胸を締めつけられるように想うことがあった。こう言うときは、哀しさが顔に出てしまう。


 たった一度だけ、と許しを得て吉乃は、過去のことをどう思っているのかを信長に打ち明けたと言う。信長は分かっているとも、知っているとも言わず黙って、吉乃の思いのたけを聞き続けたと言う。


「誰もが必ず死のうわ」

 やがて信長はたったそれだけ、吉乃に応えた。

「だがわしが死ぬときは、犬死ににあらあず。立派におのれの語り草となしてやろうわ」


「自分なら、悲しませはせぬ。あの方なりに、わたしを励ますために言うてくれたのでしょう」

 市は目を丸くした。信長らしいと言えば信長らしいが、よく考えてみると慰めとも言えぬ慰めである。

「でもそう言う方なのです。…そして、それから何度も、危ういいくさをなされたのはご存じのことでしょうが、不思議と心配にはなりませんでした。なぜか心強くて…一緒にいると、太陽を背負ったよう」

 吉乃の笑みは、どこまでも朗らかだった。

「それに、わたしが身を案じるといつも仰られるのです。『おのれは、この信長が死んだところを見たことがあるのか』と」

「あるわけにゃあわ!」

 市は思わず、つっこんだ。

 相変わらずとんでもないことを言う兄である。だが、そんな信長がいつも吉乃を安らがせてきたのだ。


「だから市どのも、見つかりますよ。迷いなく、択べる誰かが」

 残響のように、市の耳朶に吉乃の優しい声音の名残がする。


 その背に、ふわりと小袖がかけられたのは、そのときだった。

 たった一人と見えた市の後ろに、埋火が控えている。小袖は、夜風に冷えた身を案じてこの忍びがかけてくれたのだ。


「吉乃さまからですよ」


 市は咽喉の奥で小さく、声をかみ殺した。

 この小袖は今日、小牧山に輿を入れたときに吉乃が身に着けていたものである。

 咲き乱れる薄桃色の躑躅(つつじ)の花柄が、たおやかな吉乃によく似合っていた。


「もらってよいのか」

 市は振り向かずに問うた。

「はい…この上はもう、この小袖を着ることはないでしょうから、と吉乃さまからのご伝言です」

「とても気に入った。…明日でよい、吉乃どのにはそう伝えてくれ」

「分かりました」

 それから放っていると、埋火の気配はすぐに消えた。


(…寒いな)


 夜風をしのぐのに、市は袖を通さず(たもと)だけかい寄せた。ふわりと、甘ったるい果実の香がした。さっきまで近くで話をしていた吉乃の身体の匂いだ。不思議なことにその柔らかなぬくもりすら、まだそこに乗り移っている気がする。



 吉乃は死ぬ。

 この小牧山に移って三年、永禄九年(一五六六年)五月十三日のことだ。


 その頃にはもう、市は娘ではなかった。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ