第十二話 相容れぬ宿業
「さて、そろそろ信長旦那のお帰りだぎゃ」
と、腕まくりをし出したのは、藤吉郎だ。
「方々!先のお振舞いに感謝して、今度は賑々しく信長旦那をお迎えしようでかんわ!」
吉乃が無事、御殿に床を延べてからも藤吉郎は働きづめである。
信長が人足たちの振舞いに運び込んでいった樽酒が行き渡るよう、自ら差配し、あるいは注いで回り、大釜に焚いた飯をどんどん握り飯にして大鉢に盛り上げて運ばせ、新造の城中の意気をぐんぐん高めていく。
藤吉郎の景気いい高声が響くたび、人々は笑いさざめき、吉乃の入城は信長が現れるまでに十二分に寿がれた。藤吉郎が嫌いだが、この男はやはり、人を沸かせると言う万人に一人の才能の持ち主ではあるのだろうと、市は思った。
やがて信長が戻る。
藤吉郎が場をあっためておいたので、出迎えは賑々しい。
「お屋形様、お帰りなされませッ!お吉さまは無事にて、御殿でお待ちでござりまする!」
「大儀だでや、ようやった藤吉郎」
いつもより甲高い声で、信長は藤吉郎をほめた。普段は騒がしいのが好きではない信長だが、この出迎えには心を打たれるものがあったらしい。
「わしは決めただわ。藤吉郎め、今よりおのしをこの小牧山の台所奉行に任ずる」
「ええっ!なんとっそれは、まことにござりまするかッ!」
さすがの藤吉郎も、声が上擦ってしまった。
「この信長を疑うかッ!生駒八右衛門からはすでに、召し出しの許しは得て居るだわ!おのれの商売の上手ぶり、やりくりの腕で、存分にこの新城小牧山を引き回すがええッ!」
「かたじけのうござりまする!この藤吉郎ッ、これよりも、いや、これよりは一層、粉骨砕身にて相努めまするッ!」
藤吉郎は涙を流さんばかりにして、喜んだ。多少の芝居気は感じるが、これが本心なのではあろう。たとえ台所奉行とは言え、家士として織田家に取り立てられた藤吉郎の喜びようは尋常なものではなかった。
「さあさッ、信長さま!この上は、藤吉郎が特製の泥鰌鍋を馳走いたしますぞ!」
「おおッ、今宵は泥鰌鍋か!よきに計らえ!」
返す返す、今宵の信長の機嫌は斜めならず、である。
泥鰌の料理はこれも、生駒屋敷での定番の献立であったのだろう。食べるだけで精のつく泥鰌は、武士たちの日頃の活力を支える定番のご馳走だ。
尾張では濃厚な八丁味噌で仕立てて、大量に笹がきにした牛蒡や、夏大根などの根菜類と煮込む。仕上げに青ネギでもどっさり盛り込めば、言うことはない。
泥鰌は包丁を入れず、何も手を加えない丸のままである。ぽっちりと玉のように膨らんだ頭から通った小さな背骨まで、余すところなく食べられるからだ。
(む、どれどれ…)
厨から、あまりにいい匂いがするので、市の足はふらふらとそちらへ向かってしまう。あまり大きな声では言えないが、泥鰌は好物である。
同じ川魚の類でも鰻は塩焼きにするしかないし、川床の臭いも強く少々脂がきつすぎると思うことがあるが、味噌と野菜で旨味を引き出している泥鰌は、お腹にたまる上に力がつく。
何しろ育ちざかりなのである。さっきさんざ帰蝶が届けてくれた桃は食べたものの、好物となれば話は別だ。
「泥鰌には、下味が必要でござりまするで、お市さま!この藤吉郎めが秘訣を聞きとうござりまするかッ!」
「別にええでや」
ちっ、いいところで。市は顔をしかめた。余計なところで、余計なものがしゃしゃり出てきたものである。
「なぜお前がおるのだわ」
「今宵から、台所奉行にござりますれば!小牧山の方々の胃袋は、この藤吉郎がしっかとお引き受け申し上げまするで!」
「どーせ、女房衆の尻を叩くだけであろう」
市は厨をのぞきこんだ。そこには大きな甕が据え付けてあり、仄暗い油灯りの中で、黒々とした泥鰌が川藻のようにうようよと蠢いているのが見える。
「泥鰌は生きておるうち、下ごしらえが要り用なのだわ。清洲から来た女房衆などは、ちぃーいッとも分かっとらん。この藤吉郎めがおらねば、せっかくの信長さまのご機嫌も損ねることになるでのん」
「ここへ放してあるだけではにゃあか」
いらっとして眉をひそめた市だが、顔を近づけるとその秘訣とやらが分かった。
この甘くすえたような香り。泥鰌が放してあるのは、ただの川の水ではない。なんとこれは酒を混ぜてあるではないか。
「だーです!どえりゃあことしとりましょう!泥鰌には包丁は入れぬで、酒を飲まして下味をつける!煮る前に肉の臭みもとれるし、一石二鳥!これぞ、藤吉郎の秘伝。これはお市さまも、ご存じにゃあでござりましたでしょう!」
「知らぬでも、別して困らぬだわ」
にべもなく市は言ったが、なぜだろう、そこはかとなく悔しい。何か言い返してやろう、と思って、市は甕の中の泥鰌を見ていた。
「兄上が家中の荒武者どもに、泥鰌の料り方など賢しら気にひけらかせば、鼻で笑われるだけでかんわ。…藤吉郎、お前はしょせん、その台所奉行が関の山だわ。兄上に仕えるのにそれで、不満はないのかや?」
考えてみれば、疑問でならなかった。美濃攻めをする信長が今、もっとも家中に欲しがっているのは、いくさ自慢の勇士だ。彼らに比べれば出世など、台所奉行では望むべくもないではないか。
「…されど、いくさ自慢の方々に、味噌塩の算段は無理でござりまするからなあ」
しかし、藤吉郎は悔しがる風もなく、言ってのけた。
「どんな勇士でも腰兵糧(弁当のこと)を持って、いくさで活躍出来るは精々、二日か三日、それよりはなす術もなく飢えるだけでござりますれば。藤吉郎めが頂いたお役は、そんな方々をお振舞いでお救い出来る仕事なのですわ。上手くやりくりすれば、信長さまの面目も立ち、いくさ自慢の方々も長く働ける。そんなことの出来る人間が、重宝されぬわけはあるみゃあて!」
「されど首注文(戦場の武功帳)に、武功は載らぬでかんわ」
「されど信長さまなれば、よう見て下さるで」
言われて、市も言葉に詰まった。
確かに兄は、そんなところがある。大凡の主君がしないことをするし、注目しないものに注目する。例えば先の桶狭間合戦では、今川義元の本陣を突き止めた家来に第一武功を与えていたりする。
藤吉郎の方ではもうすっかり、それを心得ている、と言う顔だ。
「お市さまはどう思うか知らんがこの藤吉郎めには、藤吉郎の身の立て方があるのだわ」
「そうかえ」
市は、話を打ち切るように言うと、首を振った。
「ふん、賢しらしき立ち回りが過ぎて、足元をすくわれぬよう精々気を付けるがええだわ」
市の精いっぱいの憎まれ口だったが、いずれこの藤吉郎が信じるように戦国の世が移り変わっていくことを知る由もない。




