第十一話 日陰者の寵姫
やはりまだ、信長は在城していなかった。恐らく会えるのは夜、吉乃の容態を見ながら披露目はまた他日、と言うことになるだろう。
「清洲より水菓子が届いておられるようです」
伝えに来たのは、火偸だった。
信長が手配していたのか、見た目も初々しい桃が井戸水で冷やされてあったと言う。
「なんと!兄上も気が利くのう」
この暑い日盛りに桃と聞いて、市もうきうきしてしまった。
やがて薄皮を剥いてぬめぬめと生白い光沢に満ちた桃の切り身が盛られて運ばれてきた時、市は平素のたしなみもすっかり忘れてしまっていた。
唐物の絵付け平皿に盛られた桃の実は、それだけで艶めかしいかぐわしさに満ちている。思わず手づかみに伸ばしかけて市は、自分のはしたなさを悟った。非難こそしないが火偸も埋火も、いたたまれなさそうに、こちらを見ている。
「やっ!やっ、やあ!これはしまった!不覚であった!この皿は、吉乃どのへの桃であったのだな!?」
取り繕うように市は声を高くしたが、もう遅い。
もはや大うつけと言われた信長ですら、やらかさない粗相である。兄妹の真っ白い視線が痛い。火傷したように手を引っ込めた市であったが、その他に見ているものがあった。その皿を吉乃のいる奥へ運ぼうとした若い女房である。
「ふふふ、確かによく冷えていますから。遠慮なされることはないのですよ」
「そっ、そう言うわけにはいかにゃあで!これは吉乃どのが口にしてから…」
その透き通った声音の冷たさに、市は思わず答えるのを止めた。
(何者…?)
この女中。蝶柄の小袖にたすき掛け、白布巾で髪を包んでいるが、山出しの田舎女房などではなさそうだ。女は市を見下ろしたまま、その切れ長の瞳だけを細めて微笑んだ。
「お市どの、自らお毒味とは。…ご苦労さまですね」
「きっ、帰蝶さま!」
悲鳴を上げるように言ったのは、埋火である。女房衆に化けて、いつの間にか紛れ込んでいたのだ。まさか清洲からたった一人、忍んできていたとは。顔色を喪うほど驚いた市は、つぐ言葉を喪った。
「桃は、わたしの計らいです。ここまで暑かったでしょう。遠慮なく咽喉を潤して下さい。…心配ありませんわ、毒など入っていませんから」
と言うと帰蝶は自ら、桃に手を出す。袂から取り出したのは小さな匕首だ。短いが鋭いその切っ先でぬめった果肉の艶肌をじわりと刺し通すと、なんと丸かじりした。市以上に、はしたない無作法だ。しかし、帰蝶がするとそれは息詰まるほどに後ろめたい色香が匂った。
「どうぞご遠慮なく」
李を思わせる淡い光沢を帯びた唇に、濡れしたたった桃の果汁を帰蝶は蛇のように細長い舌でなめずった。
「この桃はお市どのへの御礼なのです。わたしが火偸兄妹にさせたおいたをよく庇ってくれましたね」
「は、はあ」
元々あまり親しくはなかったが、やはり近寄りがたい人だ。
帰蝶は吉乃とはまったく違う女性だった。
朗らかな吉乃に比べると、帰蝶にはどこか、暗がりを思わせるようなものがある。本来の立場は逆なのだが、明らかに吉乃は日向、帰蝶は日陰である。
低く透き通った声音と言い、目蓋の薄い切れ長の瞳といい、蝮と言われた亡父譲りと言われれば納得するような、ひんやりとした殺気のようなものが漂ってくるのだ。
「礼には及びませぬ。この市も、兄が身の上を案じてしたこと」
「埋火の命を、救ってくれたでしょう。それも何度も。…だからこの子にはまだ、手放しにはものを頼めないの」
帰蝶にじろりと横目で見られて、内気な埋火はいつも以上に小さくなっている。
帰蝶の叱咤は一見大人しいが、裏に冷たい殺気が匂っている。確かにこんな面がなければ、この戦国の世で忍びは扱えまい。
だがこのままでは、この場にいる誰もがいたたまれなさすぎる。
「帰蝶どの、こうしてお話になるのは思えばほとんど、今が初めてでござりまするな」
と、市はさりげなく話題を変えた。そして自分も手づかみで桃にむしゃぶりついた。
「そう言えば、そうですね。…お市どのの話は、信長さまからずいぶん聞いていたのだけれど」
信長の名を口にして帰蝶はやや表情を綻ばせたが、それも幽かである。彼女がいったい信長とどんな夫婦の会話をするのか謎だが、厄介な妹の話はしていたわけだ。
「吉乃どのとも、お話なされるのはこれが初めてで?」
市はそこで、核心に迫る話題を口にした。
その目線は、帰蝶が手にした匕首を追っている。なるほど、桃には毒は入っていない。だが市たちが気づかなければ、それを持ったまま女中を装った帰蝶は、吉乃の病床に侍るつもりだったはずである。
「いいえ、吉乃どのとはもう、ずっとせんにお話をしていますよ」
帰蝶はすると、何でもないようにこう言った。
「話したらすぐ、わたしの正体に気づいてくれましたし」
(なんじゃと…)
市は言い知れぬ恐怖を、口にすることをとっさに拒んだ。
はっきりそうだとは言わなかったが、つまりこの人はすでに、この場の全員の目を偸んで吉乃の病床へ忍び込んでいたと言うことである。しかも人を殺せる凶器を持ったまま。
ふいに匕首を閃かせると帰蝶は、じゅわりと桃の切り身を刺した。そのまま弄ぶように、何度も抜き差しをする。そのたび新しい刺し口から、透明な果汁があふれこぼれた。それは食べると言うよりは柔らかい桃の果肉になんの抵抗もなく吸い込まれていく刃の感触を愉しんでいるかのようである。
と、獲物をくわえた蛇が鎌首をもたげるように、帰蝶は突然、匕首を持ち上げた。そこには桃が深く刺さったままである。いったい、何をしてくる気だろう。市は訝った。
貫かれた桃は、百舌の早贄のようだ。ここは決して慄いた素振りを見せるものかと、市は眉だけひそめてみせた。帰蝶は謎の含み笑いをしながら、手のひらの中の剣を翻す。すると大きな揚羽蝶が金象嵌してある柄が市の方へ差し伸べられた。
「おいたは、もう終わりと言ったでしょう?」
低い声で帰蝶は言った。今、必然的にその切っ先は、帰蝶自身の咽喉へ向いている。そこから市が身体ごと押し込めば、桃の果肉ごと帰蝶の急所を刺すことが出来るように。しかもそれだけに飽き足らず、さらに帰蝶はゆっくりと身を起こして、市の方へ近づいてきたのだ。
「…信長さまと、帰蝶のつながりは吉乃どのとはまた、別です。二人きりにて話したらよう分かりました。わたしはあの方の野望に、吉乃どのは、それ以外に。女子によって添い遂げる仕方が違ってよいのです。…帰蝶は美濃の姫、蝮の娘、ですから」
匕首は、市の手にそのまま、強いて押しつけられていた。帰蝶の顔も市の傍にある。噎せるような甘さの果実の香を含んだ吐息の生温かさを、市はすぐ鼻先に感じた。
「…あの方もどうせ、永くはなさそうですし」
そこで帰蝶は、密事を囁くように言った、
「だから赦して差し上げます」
「うっ」
市は思わず悲鳴を呑み込んだ。刃の先に残った桃の実を、帰蝶が歯を剝き出してくわえたのである。市が身じろぎひとつしていたなら、桃に隠れた刃は、帰蝶を刺し傷つけたに違いない。
しかし帰蝶は平然と口の中に、丸ごと桃をくわえた。そしてその果肉を蛇が奪い去るように噛みとって行ったのだ。
「これに懲りず、今後もよしなに」
気がつくと市のその手には、桃の果汁で濡れそぼった短刀だけが残っている。悪夢と言うしかなかった。音もなく立つと、いつの間にか帰蝶は去っていった。明かり障子を開けて閉めていったはずである。まるで亡霊のようだ。あの帰蝶こそが、火偸たちなどより、よほど腕の立つ忍び者なのではないか。
「あの方なりに、お市どのには感謝されておられるのでござる…」
今さら繕うように、火偸と埋火が言い募る。
「その御刀は、このわたしめを助けて下さったお礼だと思います…だからお市さまっ、そのっ、帰蝶さまのことお嫌いにならないでくださいっ」
「無理無理無理無理…絶っ対、無理だわ…!怖すぎるでかんわ…」
市もさすがに、背筋が凍った。
が、あの帰蝶とはまた、どこかで交わることになりそうだ。




