第十話 日盛りの輿入れ
それから暑さきびしい日の盛りに、信長は輿入れの行列を出した。
敷き詰められた白砂が浮き上がるように光って見える街道は、照り返しが厳しい。あまりの暑さに出歩くものもまばらで、真夏の蝉が泣きさんざめく声がやかましく響き渡るだけである。
(…遠い)
そこに見えても、中々たどり着かないのが城である。目指す小牧山の背後には、絵に描いたような入道雲が、朝から形一つ変えずに沸き立っていた。
日除けの笠を押し上げると、市はそれをあえぐような顔でそれを見上げた。
(…かような日にしかなかったものか)
この暑さでは輿とは言え、吉乃の病状にも障るだろう。今さらながらに市は心配になった。さりとて残り時間の少ない中、悠長に日取りを択んでいる暇はない。良くも悪くも信長はいったん決めれば、いっさい迷わぬ性質である。
「市、同道せえ。…くれぐれも吉乃を頼む」
そう信長に頼み込まれれば、市も否やはない。何しろ言い出したのは、自分なのだ。
「わしも同道したいが、それは叶わぬでや。…この信長が代わりに輿入れ、しかと見届けるだわ」
当然だが、信長と吉乃の間に婚礼の儀はない。この文字通りの輿入れが、信長が吉乃に贈りたかった婚礼の証でもあるのだろう。
当時の婚礼は花嫁の行列を、花婿が屋敷で迎え入れる手はずだが、まだこの小牧山城には、信長はいないようだ。いつ戻ってくるとは聞かなかった。私事のことで政務を手放すわけにはいかないのだ。遅れをとればそのぶんだけ、敵方に付け入られる、それが戦国乱世の治国の倣いである。
「…お市さま、お暑うござりましょう。良かったらお顔を」
と、火偸が、沢で濡らしてきたばかりの手拭いをそっと差し出す。市はそれを手に取り、顔を拭いかけて、思いとどまった。
「待て。吉乃どのは、大丈夫であろうか」
「ご心配には及びませぬ。そちらは、埋火が」
と、火偸は卒なく答えたが、市は輿の傍まで駆け寄った。吉乃の様子をこの目で確かめないとやはり気が済まないのである。
「あっ、こら間者娘。まーた怪しい真似を。わしがおるゆえ、余計なことをせんでええのだわ!」
折悪しく埋火は、藤吉郎と揉み合っていた。どうもこの利け者も、同じことを考えていたようである。
「なーにしとりゃあすかーこの禿ネズミめが…」
市が冷たい声でたしなめると、藤吉郎は感電したようにびくりと背筋を正して、埋火から離れた。
「おッ、お市さま!その、誤解だわッ、わしはこの娘にはなーにも手は出しておりゃあせんでや!」
「さっさと去ね」
問答無用で市は言った。凄みのある笑顔である。
すごすご藤吉郎が退散すると、まごつく埋火から市は水桶と手拭いを譲り受け、御簾のかかった輿の中をのぞきこんだ。
「…お暑うござりませぬか」
病みついた吉乃は仰臥てなどいなかった。目の覚めるような色の着物をまとって、姿勢を崩さずに座っていた。市はその美々しさにあてられ、気圧されたようだった。
吉乃にはこの世で最期になるかも知れない輿入れだ。何もかもを膳立ててくれた信長に、必死で応えようとしているのだろう。
「かたじけのうござりまする」
やんわりと、吉乃は市の差し出した濡れ手拭いを謝絶した。顔を拭えば、せっかく信長に見せようと言う化粧が落ちてしまうのである。
「代わりに、吸い口へ新しい水を足してください」
と、吉乃は、小さな吸い口を取り出した。
「…藤吉郎が、気を遣ってくれたのですよ」
上目遣いで、吉乃はそう言う。さっきの騒ぎを聞いていたのだろう。暗に市を、たしなめたのだった。
「あれは、あれで気の回る男なのです」
埋火を咎めた藤吉郎にも、理はあるのだ。分かってあげて欲しい、と吉乃は、言いたいのだと思う。
「…承知しておりゃあすで」
市は頬を膨らませて弱い抗弁をした。
それくらいのことは、分かっている。信長へも、吉乃へも、あの男はまめまめしく仕えているのだろう。ある意味では、そのことへの嫉妬なのかも知れない。
「もちろんこの吉乃も、それより妹御のお市どのの想いが強く深いことは、承知しておりゃあすで」
市の口調を真似て言うと、吉乃は微笑んだ。いつ見ても、澄んだ笑みをする人だ。今のも別に市の機嫌を取ろうと媚びたわけでもなく、藤吉郎との不和を解こうとしたのも、それが大事なことだから、見透かして口にしたに過ぎないのだろう。
(…兄上が、惚れるわけだわ)
ちくん、と胸が痛んだ。
まあ、この美しすぎる人の先がないせいもあるのだろう。だから私心もなく、潔く、自然に誰もを気遣って優しく振舞えるのだ、とは思う。
それでもそれに引き換えると、いつもこの胸の内にぎすぎすしたものを抱えている自分が、市はみじめだと思わざるをえなかった。
大凡の殿方が望む女のように淑やかであるべきだとは、市は思ったこともない。でも、こんなときの吉乃から芯から湧き出るたおやかさが、市には羨ましくてならなかった。
さて大手門をくぐってからが、本当の勝負であった。藤吉郎が先に立ってせわしなく人手を叱咤し、新造の御殿に床を整える。力仕事がてきぱきと片付くと、大急ぎで吉乃の身を横たえるのは、お側の須古女をはじめ、勝手知ったる女房衆たちである。
気丈に座っていた吉乃も、実はそろそろ限界を迎えていたのだろう。
埋火とともに介添えを手伝った市は、その美々しい小袖に包まれた肢体にすでに肉は薄く骨はか細く、足腰も信じられないほどに弱っているのを初めて実感として知った。
「本当に助かりました…」
と、市に感謝の言葉を与えつつ、吉乃はずっと、床の上で息を調えていた。
こんな病状でこの暑さの中よく、小牧山へ発つことを決心したものである。




