第一話 織田の兄妹
その口の中から、今にも朝陽が昇ってくるようだった頃がある。全身の血が炊き上がるように熱く顔が火照って。むずむずして、居てもたってもいられなくなる。まるで己の血に酔って、のぼせ上がりそうに。
まだ十二、三歳のくらいの小娘だったころだ。
そんなときは見る見る気持ちが鬱してきて、力いっぱい激昂したくなった。それでも、喚き散らしたりはしない。刺すような殺気を込めて、睥睨めつけるのである。
この戦国の世にあっても、大凡の男衆は、その目にあからさまな恐怖を抱いた。しまいには恐れを、愛想笑いに隠して逃げ散らした。
「何を見とりゃあすか、このお市めがッ!」
しかし幸いにも、この少女には、その殺気を受け容れるだけの度量がいた。ちょうどおのれの年齢丸ごと一つ、離れた実兄のことである。
織田上総ノ介信長。
母親を同じくする血を分けたこの兄が、その凄まじく切れ上がった眼裂を綻ばせて自分の名を呼ぶとき、市は総毛立つ想いをするときがある。それはある意味では、限りなく嫌悪感に似た、不可解な愛情である。この兄を目の前にすると、息苦しくさえなることが市にはあるのだ。
女の徴を得てほどない市にとっては、まるで病のような血の上せとしか思えない。慕うほどに憎たらしい、と言うない交ぜの愛憎である。
思春期の市にとってこの兄は、好ましいほどに憎まれ口をきいてみたい対象であった。だが織田信長と言う男に憎まれ口を利く、と言うほどの人間はその清洲の城下には存在しない。そこで市も、何も言わずに兄を見つめるだけなのだ。
「その目を止めえ。わらわに忌まわしきおのれの兄めを思い出させるな」
実母の土田御前が、いかにも憎体に非難するその眼差しで。
市が信長を睨めつけるようになったのには、一つにはこの眼差しのせいもある。母親が同じ目つきをやめろ、と言うこの殺気だった顔つきのことである。
女の徴で身体が膨らむその前、市は幼き信長にそっくりだと言われた。今は戦場の烈日に灼かれて浅黒い信長だが、幼児の頃は色白で清げな顔立ちをして娘のようであったらしい。幼き市の顔立ちは、その信長と近かったのである。
織田家には美形伝説がある。
平安末期、近江は津田郷を治める豪族のもとへ落ち延びてきた平家の妾があまりに美しい女であったため、この男は妻を追い出して強引に正妻に据えた。
その女は多くの子を産んだのだが、その息子の一人を、継ぐ者のいない尾張熱田神社に継がせるべく、神宮織田氏が貰い受けた。美形の血はその平家の愛人からやってきたものだ。
面長で色白、体毛が薄く、それでいて思いのほか瞳がぱっちりとしている、と言うのが、織田の家系の顔立ちの代表的な特徴であった。織田信長と言う男はそれを、余すところなく受け継いでいる。
しかしこの兄は決して、美形に多い蒲柳の質ではなかった。あたら寵愛を受けやすき線の細い風貌に生まれつきながら、戦乱の荒波に揉まれて悍馬のごとく猛り立ち、荒々しくも洗練された士大夫になった。
今や五尺七寸(約一七一センチ)に近い体格の信長は、その長身と同じほどに寸の長い大太刀を振り回すのである。
ただの処女に過ぎない市にとってみれば、むしろそれが憎い。
この兄に憧れるほどに、女体の市は男体の信長から遠ざかっていくのだ。市にはそれが口惜しくてならない。みすみすこの未曽有の戦乱の申し子に、生き写し、と言われるほどに、似通って生まれながら。
何しろこの兄は三十にならずして、この尾張一国を併呑した戦国稀有の風雲児である。これほどに若くして祖父にも父にも成しえなかったことをもうしてのけている。
下剋上の申し子、越階の沙汰(身の程知らず)と人は誹るであろう。だが、ますます憎いのは、してのけたのは、ただそれだけではないことだ。
「黙っておっては、らちも明かぬでかんわ。…この兄と話したきことあらば、苦しからず。ここへ直れ。かような場所でこそこそと、隙見すな。曲者と見まがうわ」
日向と汗の匂いがする湯帷子をまとった信長は片頬だけで笑うと、小袴から毛の薄い脛を放り出した。市を見下ろすのをやめて無造作にどかりと板の間に胡坐を掻いたのだった。
「…話したきことなど、何もござりませぬで」
市は口早に打ち消すと、気安い信長に近寄るのを拒否しかけたが、それも臆病と思い、そうなると次の瞬間には物怖じた自分がむしろ嫌になって、気ぜわしく信長の前に座っていた。
そのとき振り乱れた髪がふわりと甘く薫り、湯上りのように上気した市の額に汗で張りついた。それが信長の目を瞠らせたことには気づいていない。
「ふん、我を張りおって。どうせ、この兄に尋ねたきことでもあるのであろう」
「無あものは無あで!市めは座れ、と言うから、ここへ座っただけにござりまするわもッ」
市は鋭い眼差しを崩さぬまま、膝上の拳を固く握って信長を見上げた。
「それでもお話しになるなら、どうぞご勝手に」
「ふん強情者め!聞きたくにゃあなら、聞かいでええがや」
と、立ち上がりかけた信長の小袴の裾を市は、はっしと掴んで、
「兄上はいくさ前の約定を違えまするのか。…誰ぞに此度のいくさ自慢をなさりたいと言うならば、まずこの市になされませッ」
「うつけめッ!張らいでもよい意地を、この信長に張りおってッ!この兄が手にも余るでかんわッ」
ぴしりと頬へ縦にひびが入りそうな笑みを浮かべると、信長は市に掴まれた裾を払った。
「女子の分際でッ!血腥きいくさ話をせびるは、おのれだけだでや」
いつしかひと際逞しくなった腕を回して腰ごと抱え、信長はこの常ならぬ妹を強引に抱き寄せた。
「お市めッ!お前はこの兄が、信長が、約定を違える腰抜けと思うとりゃあすか。ええから、大人しゅうせえ。…義元が首獲り話、篤とおのれに聞かせてやろうずッ!」
この兄妹がしたと言う約定は無論、この義元の首獲り話、の前後のことである。
永禄三年五月、今川治部大輔義元、襲い来る。
桶狭間の戦いとして、後世に語り継がれる大いくさとなった戦国随一の決戦である。まだほんの小娘だった市は嵐に飲まれる木っ端船のようなこの清洲にいた。
とても勝ち目はない。
海道一の弓取りの噂に名高い今川義元が、二万五千もの兵を動員して尾張へ侵攻するのだ。それを聞いて、町辻は逃散の衆であふれた。
諸道は隣国美濃へ落ち延びる人や荷車で見苦しいばかりの混乱だ。それでもあたら領土を見捨てて逃げられない重臣たちは信長のいる清洲城へ駆け込んだ。むさくるしい武者衆が大広間の板の間を踏みしめて立ち騒ぎ、いくさ評定は紛糾した。
その大混乱のさまを、市は暗い納戸に潜んで垣間見していたのである。
「平場のいくさでは、到底勝ちは見えぬでかんわッ!」
ひび割れた声で籠城戦を主張していたのは、家老の林通勝だ。
「ここはなるたけ、この清洲で持ちこたえて天祐を待つにしかずッ」
(馬鹿な)
家老ともあろうものの弱腰に、市はほぞを噛んだ。
なるほど、平地合戦を展開しても勝つ要素がない。隠れなき正論である。何しろ義元のもとには、駿河・遠江・三河三国の連合軍がひしめき合っているのだ。
真正面からぶつかれば、それこそ生卵を岩肌に叩きつけるほどにあっけなく、織田の軍勢は叩き潰されてしまうだろう。
それでも時間の問題ではあるが五条川の濠で守られたこの清洲城であたうる限り持ちこたえるよりは、抗戦の手段はない。しかしそれでいったい、どんな天祐があろうと言うのだ。
「だがご家老ッ!これより城籠りしたとて、幾日支えられましょうや!?」
抗弁する者も、今まさにおのれの存亡が懸かっている。清洲籠城は、勝ちを拾う策ではなく、その場を取り繕ういわば弥縫策である。到底、賛同できようはずがない。
そんな豪族たちに通勝は、振り払うような怒声を浴びせた。
「うつけめッ、平場の合戦にて大勢に取り籠められて首を掻きとられるのと、いずれがましかよう考えるでやッ!」
「さっ、されどッ!」
脂汗を額ににじませた老臣たちが声を上げる中、信長独りは水を打ったように静まり返ってなんの意見も出さない。頬杖をつき、ただあらぬ方向を眺めているように見えた。
「で、あるか」
突如、色のない声で信長は、声を発した。思いのほかの冷めきった声音に、大声をあげていた男たちは、固唾を飲んで静まり返った。
「おやかたさま…今、なんと…?」
恐る恐る老臣が、その真意を尋ねる。
「されば、城籠りの身支度せえ」
問答無用で信長は言った。
「当家と命運を共にするものは、清洲へ残れ。逃ぐるものは地の果てまで逃げえ」
以上、と言うように、後は黙りこくった。
重臣たちは、蜘蛛の子を散らすようにしていなくなった。信長はみるみる、がらんどうになる大広間をじっと眺めているばかりだ。
たった独り、取り残されていくかのような兄を見て、市は唇を噛んだ。
これから一体、どうするつもりであろう。籠城したとて、勝算はあるまい。恐らくあの中には、ここへ戻らないものもいるに違いない。武人でないお市の脳裏にもすでに、この清洲の板の間が、血なまぐさい今川の軍兵の足半に踏み荒らされる姿が浮かんでいた。
(兄上はこの城にて死ぬる気か)
宿老たちが目を剥いて激論するなか、信長ひとりは夢うつつであった。なぜかぼんやりと空を眺めていた。今川とのいくさのことなど眼中にもなく、すでに呆けてしまったかのような胡乱な眼差しであった。




