第二章 猿 (一)
その男が、上座敷に転がりこんで来るなり発したのは、「ひゃー!」という奇声だった。
そして、わざと足を大きく踏み鳴らすように音を立て、真白い足袋の底で青畳の上をパタパタと叩いた。微かに埃が飛び、男の小さな薄い影が、整然と編み込まれた藺草の目の上を踊った。
「八十日目だなもう!息災だったきゃあ?会いたかった、会いたかったあ!」
声がひっくり返って、頭のてっぺんから天井まで抜け、そこからまっすぐ落ちてくるように聞こえる。全身、綺羅びやかな装いに身を包んでいるが、せいぜいが五尺かそこらしかない矮小な体躯に全く似合わず、あたかも衣装がひとりでトコトコ歩いているかのようだ。
筑前守・羽柴秀吉はそうやって大騒ぎしながら座についたが、又助と弥三郎は彼を見ていない。すでに二人とも拝跪し、額を畳に擦り付けていたからである。
だが、秀吉はかしこまる彼らを責めるように、
「そんな、やめてちょうよ、さ、面を上げ、面を上げ!」
と大声をかけてくる。
二人は顔を上げ、背筋をしゃんと伸ばした。そして、まるで借り物の衣装を着込んではしゃいでいる、この猿のような小男を、正面から見た。
すこしだけ間が空き、三人共が声を合わせ、一斉に大笑いした。
「すっかり、皺々の爺いに、なったなも!」
秀吉が二人の方を指さして言う。
「筑前さんも、人のこと言えた義理か!」
強気の又助が負けずに言い返すと、秀吉はすかさず、
「たあけ!よう、覚えとるじゃろ!この皺々は・・・昔からじゃい!」
と、刺子布の手袋をした手で自分の顔を撫ぜるようにしながら答えた。三人は、またしても大笑いした。
ひとしきり笑い追えたあと、弥三郎が改めて畳に両手をつき、軽く頭を下げて言った。
「祝弥三郎、筑前守のお召により、参上仕りましたぞ。」
「同じく、太田又助!」
すると秀吉は、
「同じく、藤吉郎!召した、召した、おみゃあら召した。」
と昔の名前で自ら名乗り、左手に持っていた黄金色の扇を開いて、それをひらひらと振りながら上座でひとり呵々大笑した。
「よう来てくれたわい。急に呼びつけて、ほんに、すまん。」
秀吉はそう言って、形ばかりだが、頭を少し下げるような仕草をした。
「ご覧の通り、戦の最中でよ。あのしぶとい三河の狸に、ちと苦戦しとるで。だけどよ、今日は戦場も静かで、軍議は朝だけじゃい。昼からは身が空くと佐吉が言うで、こりゃ、しめた!とおみゃあさんら、呼んだんじゃい!」
ぱしっ、と閉じた扇の先で、上座の脇のほうを差した。
いつのまにか若い才槌頭の武士が控え、二人に向かって丁寧に頭を下げている。
「いや。ずっと、ずっと、また三人揃うてよ、酒呑みながら話したかったんよ。昔みてえに。でもよ、もう何年も、あっち行けこっち行けと総見院 (信長の法名)様に小突き回されてよ、そんな閑なんぞ、ちっともありゃあせん。いつしか時が経って、もう、会えねえものと思ってた。それがよ、いくさの最中だってえのに、ひょんと閑になってよ、こうして会えたわけじゃい。これもあの狸と三介 (信雄)殿のお陰よ。」