第一章 犬山へ (六)
犬山城・松の丸は城域内最大の郭で、そこに建てられた御殿も宏大であった。大人数を応接するための広々とした広間が設えられており、他に書院や対面所なども作られている。表では様々な身分の武士や雑兵や商人などがせわしなく行き交い、その賑わいがわずかに奥向にも伝わってくるが、二人が通された奥書院はまずまず静かであった。
南向きで暖かく、すいすいと風が通って心地よい。眼前には十畳敷きの清潔な上段座敷が広がり、開け建てられた襖を挟んで二人の座る次之間となる。襖は豪勢なもので、おそらくは狩野派の絵師が描いたと思われる松柏の画が、金色の背景の上に浮かび上がっていた。
廻りに、人が居なくなったのを見計らって、又助は弥三郎に小声で話しかけた。
「なんとまあ、大したご出世じゃ。」
もちろん、筑前守秀吉のことである。この清浄で閑静な御殿は、又助の記憶する秀吉にはおよそ不似合いなものだ。しかし、特に当てこすって言った訳ではなく、素直にその破格の出頭ぶりに驚いている風であった。
弥三郎も、同じく感じ入って、こう答えた。
「まさに。その昔は、本当の用人、下人に過ぎませんでしたのになあ。」
「儂らは、なんとお呼びすれば良いかのう?かつては我らが目上の立場でもあり、ただ藤吉郎と呼び捨てていた。やがて木下殿と呼ばねば具合が悪くなり、それ以降は、会うてもおらぬ。」
「筑前殿、で良いのでは?まだ殿上人ではないゆえ。また、その昔も我ら特に辛く当たった覚えもなく、おそらくは恨みつらみのようなものも無いでしょう。こざっぱりとした人柄でありましたし、特に構える必要も無いのでは。」
弥三郎も、その昔の藤吉郎の面影を思い浮かべながら答えた。いつも泥だらけで、頭に数本、毛が大きく跳ね、若いのに皺くちゃで体躯は矮小。しかし機敏で、人の心の襞を熟知し、毫も油断なく常にあたりに気を配り、そして必要なときに、笑いたくなくても下卑て媚びるような笑顔を浮かべることのできる、あの男。
その、ひたすらに滑稽で賢しらさの微塵もない、しかし眼だけは決して笑っておらぬその特有の笑顔を、弥三郎はまじまじと思い出した。藤吉郎は、たしか自分より十は歳が下だった。
「たしかに、そうだな。まあ、人が変わっておらねばの話だが。」
横で又助は、弥三郎の言葉に頷きながら答えた。
それからさらにしばらく待たされて、突然、どやどやと音がし、この御殿の主が、上座敷に転がるように入ってきた。