第十三章 威圧 (二)
甚兵衛は、さらに数歩あゆんでから耐えきれず鉄棒をカラリと取り落としたが、彼の忍耐力は人間ばなれしたもので、その歩んだ距離は、佐助のそれより僅かに長いようであった。衆目が今度は奉行どもに集まり、次いで互いに顔を見合わせてヒソヒソ顔で何事かささやき出した。
やがて、一色村側に加勢していた池田家の一党が声高に騒ぎ出した。彼らは口々に甚兵衛の足の運びが速すぎ、まるで駆けたようだと叫び、転がった鉄棒を拾って宙にかざして振りまわし、神意にもとるこの解死人の首を即刻打つようにと主張した。
しかし、彼らの必死の示威行動にもかかわらず、場の雰囲気はなんとなく妙である。
筋書きを書き、根回しをした代官の胸が、ざわざわと騒ぎ出した。なにかが、おかしい。これは、少なくとも事前に打ち合わせた通りの流れではない。何かが、いや誰かが密かに介入し、この茶番を、自分が仕組んだのとは別の方向に引っ張っていこうとしている。
鋭敏な彼が気づいた通り、やがて、神意をもねじ曲げることのできるこの地上の覇王が、山王社の境内にその凛とした姿を現した。織田上総介信長である。
狩の途中にこの騒ぎを聞きつけ立ち寄ったという彼は、数十名もの煌びやかな衣に身を包んだ小姓や馬廻たちを連れ、自前の槍や棒切れを持ち出して息巻いていた両村の村人達を、その目を奪う絢爛でただ無言のうちに威圧した。そして、唖然として立ち上がり、次いで慌てて平伏する奉行たちと、ただ蒼白になった代官のほうを、その切れ長の鋭い眼でじっと見やった。
「火起請か。」
上総介は言い、こうなるまでの成り行きを、奉行の一人から形ばかり簡単に聞き取った。そして頷き、ちらりと池田党のほうに眼をやると、
「そち等は、眼前で示された神意に敢えて異を唱えるそうな。それでは・・・余がやり直そう。」
奉行衆は、みな仰天してとび上がった。まさか、このような村同士の争いの仲裁で国主に火傷を負わせるわけにはいかない。彼らは涙ながらに上総介を止めようとしたが、まるで無駄な努力だった。そこで、悪知恵の働く代官が配下に目配せして、形だけ似た銅の棒を持ってこさせた。
その銅棒は経年変化で錆が出て黒ずみ、遠くからちょっと見ただけでは、先ほどの鉄棒と区別がつかない。しかし、鉄と銅の熱伝導率の違いから、同じように炙ってもさして熱くはならない。おそらくは上総介の、皮膚の表面をほんの少し傷める程度で済むはずである。
上総介は、余裕綽々といった顔でその茶番を演じ、悠々と規定の距離を歩き終えて、棒を地面に置いた。そして振り返ると、冷然と言った。
「神意は示された。そこなる佐助の首を落とせ。」
すぐさま丹羽兵蔵という側近が合図し、脇に控えていた武士たちが、じたばたする佐助の両肩を押さえ、ずるずると引きずって行った。やがて、塀の向こう側から彼の断末魔の叫び声が聞こえてきた。
凍り付いたかのような沈黙が、山王社に居合わせた者ども全員を覆っていた。あれだけ威勢よく騒いでいた池田の一党も、誰一人として動くことができず、ただ無言で立ち尽くしている。
上総介は、手桶に張った冷水で、まず真っ赤に爛れた甚兵衛の両手を冷やしてやり、次いで自分も同じ桶に手を突っ込んで息をついた。そして池田の一党に向けて、言った。
「今日は、勝三郎は居らぬのだな。では、戻ったら伝えよ。我らただの人間なり。皆々等しく、ただ神意に添うよう生きるべし。下らぬ夢や、あさはかな野心などは、捨ててしまうことだ。」
言い終わると、側近を連れてさっさとその場を立ち去った。一名だけ若衆が引き返してきて、平伏する甚兵衛に向け、褒美の入った赤い巾着をちゃらりと投げた。同時に塀の向こうから丹羽兵蔵が戻り、まだ血糊のしたたる、麻布でくるんだ佐助の首を、無造作にぽいと投げた。
「持ち帰れ。」
そうとだけ言うと、兵蔵もまたそこを立ち去った。




