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華闘記  作者: 早川隆
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第一章  犬山へ (四)

羽柴方は、木曽川に面したここ犬山城を最北端の本営とし、真南二里半のあいだへ数城を数珠(じゅず)繋ぎに配し、それぞれ有力な武将を数千の精兵とともに入れ、巨大な縦深を帯びた大陣地帯を形成している。対する織田 (信雄(のぶかつ))方は、南方の小牧山城を本拠に、周囲に散らした数城に()ってこれに対抗し、戦線はここ数ヶ月ものあいだ一切動かず、十万を越える大軍同士による、無言の睨み合いになっている。


戦線が目まぐるしく動き、激しい戦闘が起こっていたのは、もう半歳(はんとし)も前のこと。いま、戦いの焦点はこの主戦場から遠く離れ、まるで誰かが綿帽子の種をふっと吹き散らかしたかのように日ノ本のあちこちへ拡散している。しかしこの巨大な戦乱の核である当地の両軍陣地線では、もはや月に一度か二度くらい、偶発的な小競り合いが起こる程度。


戦争は膠着(こうちゃく)していた。




そのかげで、眼下を行き交う川商人や津島の商人たちはひたすらに(うるお)い、利を積み上げ、その幾割かを新たな主人である筑前守(ちくぜんのかみ)・羽柴秀吉の政体にせっせと上納し、この新興軍事政権が短期間のうち大いに肥え太るのを助けた。


かつては卑しい身の上で、その日の糧にも事欠くありさまであったという秀吉は、いまやこの日ノ本一等の新たな実力者として認知されている。このまま、織田信雄と徳川家康の連合軍を打ち破る、あるいは講和して彼らを従わせるようなことになれば、この小柄で抜け目のない、(ましら)のように賢い男が、天下に号令することになるのであろう。


現に、戦が膠着するのを見計らい、この未来の権勢家は、頻繁に前線を離れて遠く京や堺のあたりを往復し、そこでなにやら、先を見越した政治向きのさまざまな(はかりごと)などを巡らしている様子である。石山本願寺が退去したあとの大坂に、巨大な城塞都市を築く積もりとの風聞もある。


小牧山城を核とし、いちめんに広がった織田・徳川の大陣地線は、その覇業を阻むいわば最後の砦といってよかった。が、戦勢必ずしも利あらず、いずれどちらかが陣を払い、明確な決着のつかぬまま痛み分けに持ち込むのが関の山であろうとの見方が支配的であった。


馬の背に揺られる老人に率いられた一隊は、そうした中、羽柴方の策源地であり、本営でもある犬山城へと入城してきたのである。




やがて、ふたつある小高い丘のうち右側のてっぺんから、魚の骨を大地に突き立てたような、細長い構造物が天を指して伸びているのが見えてきた。本丸の奥、木曽川に面した崖の突端に築かれた、高櫓(たかやぐら)の屋根から伸びる物見台である。


今や日ノ本一等の総大将・羽柴筑前守秀吉が、この入口の向こう側のどこかに居る。馬上の老人は、秀吉みずからの招きにより、ここまでやって来たのだ。警護の兵らは、羽柴方から遣わされた者たちであった。


ところどころに黒鉄(くろがね)を打ち付けた頑丈な門扉を潜り、一行みなみな、わずかに身を固くした。

注) 犬山城天守閣の成立年代には諸説ありますが、ここでは、天正年間の小牧・長久手の戦い当時はまだ通常の物見櫓程度の建造物しか無かった、と想定して書いております。

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