第八章 椿事 (六)
しかし、それは秀吉の脳裏をかすめた、刹那の幻だった。弥三郎は、またもとの丁重な口調に戻り、説明を続けている。
「新参城主の信時様は、入城したその日からずっと微妙な立場におられました。城主とは名ばかり。実際は遠く三里先の清洲からの指令を受けねばならず、しかも自分にすぐとはまつろわぬ守山衆へそれを周知し徹底させねばなりません。補佐すべき家老たちは信頼に値しない裏切り者ども。ただ一人、下々を思いのまま動かせる丹羽源六殿も、清洲派の信時様とは、いささかの距離を置いて接するように思えます。全てにおいて板挟み。この苦しい状態が続き、身の置き所のない信時様は、ときに我が身を慰めるための悪習に手を染められるようになります。」
「悪習・・・よもや?」
秀吉と又助は、今度はほぼ同時に声を上げた。
「さよう。またしても衆道でござる。もともと女性よりも稚児を愛でる癖をお持ちであった信時様は、城内で、孫三郎という名の眉目秀麗な若衆と懇ろになり申した。しかしながら孫三郎の姓は酒井。彼は、家老・酒井喜左衛門の息子でございました。」
「それはますます、複雑な・・・。」
「息子をつうじ、喜左衛門との仲はずいぶんとようなり申したが、もう一人の家老、角田新五とは敵対しました。すなわち、元々の裏切り者同士が仲違いし、新城主の寵を巡って相争う状態となりました。川狩の椿事から一年が経ち、遂に思い立った角田新五は、城内の破れ築地を修復すると偽り、兵を入れて信時様と酒田親子を討ち取ったのでございます。」
「もう、何が何やらわからぬ!いったい、なんという国じゃ!」
たまりかねたように又助が吐き捨てた。しかし、弥三郎は嗜めるように続けた。
「まだ、拙者の話は半分も終わっておりませぬぞ。」
「まだあるのかよ!儂が当時、聞いたことのある話も多いが、そのいちいちに、皆の知らぬ裏がある。多くは痴情の絡んだ、他所では言えぬような話ばかりじゃ。」
「それが、同じ国を治める同じ一族同士の内訌特有の、濃く密なる陰湿さなのでござろう。しかし結局、角田は叛乱を成し遂げ、そのまま丹羽源六殿と組んで守山の城をがっちりと固めることに成功したのでございます。」
「清洲は、守山を潰そうとはしなかったのか?近くにゃ、末盛もあったに。」
これだけ言って、秀吉は、しまったというような顔をした。そして、続けた。
「そうきゃ!そのときすでに、信行様が!」
「さよう。喜六郎秀孝様が頓死なされた日より起こりし一連の出来事に不信をもたれた勘十郎信行様が、すでに清洲の兄君と袂を分つと決められ戦闘準備に入っておられました。それが、一連の尾張における内乱の最後のものであったのでございますが、そのことお話する前に、いま一人、ご両所のおそらくお知りにならぬであろう男のことを語らねばなりませぬ。」
次は、誰だ?
又助と秀吉は、黙って身を前に乗り出した。




