第八章 椿事 (三)
護衛たちは、射倒されたその謎の武者のもとに駆け寄った。彼はすでに事切れており、落下時に頭を河原石にぶつけ、頭蓋から黒く血が零れていた。洲賀才蔵の放った矢は彼の胸板を心の臓それに肺臓とともに突き通し、その命を瞬時に奪ったものと思われた。そして、うつ伏せになった彼の身体をひっくり返してその顔を見ると、洲賀と護衛隊長が、蒼白になった。
歳の頃は十五か十六。元服からまだ間もない若武者で、肌理細やかな、色白で気品に満ちた美麗な細面。そのほんのりと紅く細い唇はまるで女性のよう。涼しげな瞼を下ろし、乱れた髷から数本の黒髪が風にそよぐ様は、まるでまだ彼が寝台ですやすやと眠っているかのようである。
「喜六郎さまじゃ。これは、喜六郎さまじゃ!」
隊長はそう叫び、どうして良いかわからぬといった風にしばらくその辺をおろおろし、やがて彼方の馬上に居る主君のもとへと駆けて行った。洲賀は何も言わず、強張った表情のまま、その場にぺたりと座り込んでしまった。
そこで死体となっていたのは、織田喜六郎 秀孝 。織田信秀の五男で、ほかならぬ尾張の王、織田上総介信長の、実の弟であった。
どちらかといえば、何らの先駆けもなく無防備に姿を現した喜六郎に責を問うべき事故のはずだが、誰も、事態がそれで落着するとは思わなかった。ようやく落ち着く兆しが見えてきたとはいえ、織田家はつい二ヶ月前には清洲の城で同族合い食む壮絶な殺し合いを演じたばかりである。誰が敵で、誰が味方かもまだ見極めが難しい状況であった。そんな中、国主の叔父とはいえ、ただ流れで守山城主の座に収まったばかりの織田信次にとって、本家の甥を射殺してしまったという事実の重みは、極めて恐るべきものであった。
身に全く覚えはない。だがそれを申し開きしたとて、おそらく信じる者など誰も居はしない。国が麻の如く乱れた尾張で起こる偶発事故には、必ず何らかの裏がある。人々はそうと信じる。今回はおそらく信次が糸を引いて喜六郎を誘致し、無礼討ちと見せかけて暗殺したのであろう。皆々、口には出さずともまず一度はそのような疑心を持つはずであった。
信次は、その場で決断した。
城を捨て、家族を捨て、彼はただその場から馬の腹を蹴り、必死で奔った。どこに行くあてもなかったが、とにかく逃げた。何名かの供回りが必死にそのあとを追った。座り込んだ洲賀才蔵もいつの間にか河原から姿を消していた。数名の下級武士たちと群衆から進み出た有志が、河原にうち捨てられた喜六郎の遺骸を運び、早馬を走らせて国主に顛末を報告した。
清洲に居た織田信長は、報を聞くや、そのまま物も言わずに走り出した。城内一等の駿馬にまたがり、伴も連れずにそのまま最高速で駆けさせたが、矢田川の河原に差し掛かったとき、すでに守山城下に土煙や火の手が上がっているのを認めた。現場からほんの一里だけ南に在る末盛城主・織田勘十郎信行が、いちはやくこの事件を知って激怒し、手勢を率いて守山城下に火を放ったのである。勘十郎は、喜六郎と仲の良いひとつ上の兄であった。
矢田川の渡渉点のこちら側でその様子を眺めた信長は、大きくため息をつき、酷使した乗馬にがぶがぶと水を飲ませた。そのとき、やっと追いついた汗だくの供回りたちを見廻して、こう言った。
「誰も供奉させずに、敵地を単騎で行く、か・・・。」
自嘲するかのように肩をすくめると、
「あまりにも無思慮、軽挙。未だ我が尾張は平らかならず。一歩、城を出ればそこは敵地じゃ。喜六郎は、死すべくして死した。もはや、弟と思わぬ。」
そう言ってまた馬に乗り、いま来た道を逆方向に駆け出した。




