第七章 舞人 (二)
弥三郎は、柔らかな微笑みを絶やさず、しかし目はまっすぐ目の前の覇王に向けたまま、落ち着いた口調で話し出した。
「あれだけばらばらで、憎しみの渦巻く、さながら修羅の魔界のようだった尾張が、天文の末年と弘治の二年間、そしてそれに加えてせいぜい永禄の初年。たったこの四年間だけで一つにまとまり、流血の内訌が、その短いあいだにほぼ綺麗さっぱりと片付いてしまったのです。これは一体、なぜで御座ろう?何か理由があってのことではなかろうか。」
そう言って、秀吉と又助の顔を交互に見渡した。そして、続けた。
「いま、尾張より出たるまるで綺羅星のごとき人士たちの群れは、みなみな羽柴筑前守のもとに纏まり、ただ未来ばかりを夢みて日々を駆け続けておる。誰も、これまでのことを振り返りはせぬ。過ぎたることは、過去のこと。ましてや、今から三十年も昔、まだ総見院様の覇業が緒にもついておらぬ大昔のことなど、もはや誰一人として思いを致そうともせぬ。全ての始まりは、まさにそこであったというに・・・。」
ここまで言うとため息をついて下を向き、やがて屹と居住まいを正すと、祝弥三郎重正は、一気呵成に語り出した。秀吉も又助も、一言も口を挟むことすらできないくらいの勢いで、まるで巌のあいだを流れ落ちる奔流の如くに滔々と喋り出したのである。
その内容は次のような、驚くべきものだった。
* * * *
尾張は遠く坂東に続く東への入り口であり、細長く伸びる日本の真ん中に位置する枢要の地である。
この地には幕府から名家の斯波武衛家が守護に任じられていたが、既に没落し、実権は守護代の織田家が握っている。しかしその織田家も一枚岩ではなく、丹羽・葉栗・中島・春日井の上四郡は岩倉城に依る守護代・織田信安が仕切り、海東・海西・愛智・智多の下四郡は同じく織田家の守護代が清洲城に守護を囲って住まわせ、これを実質的に支配していた。
しかし、下四郡を統べる織田家はさらに三派に別れ、因幡守家、藤左衛門家、弾正忠家と呼ばれ、それぞれ別々の城地に威を張っていた。これら三家は時に連合しまた時に相争って、つど国内における合従連衡を繰り返していた。
そんな下四郡を統べる清洲城の守護代・織田信友の配下の重臣に、那古野弥五郎という若者がいた。
彼はこのときまだ十六歳であるに過ぎない。二年前に元服したばかりの少年である。彼の父は、小豆坂の戦いで今川の大軍と雄々しく戦い、名誉の討死を遂げていた。そんなわけで、名家の家門を背負って独り立つには明らかに経験不足の青二才であるにもかかわらず、彼の下には家中でも一等ともいえる三百名ばかりの配下と、彼ら全員が禄を食むに足る広大な所領とが宛てがわれていた。
そんな弥五郎のもとに、ある日、ふらりとひとりの流れ者が訪のうて来た。彼は物腰や言葉遣いに品格を感じさせる武士で、はじめは諏訪のほうで流行っているという田楽踊りを披露するという名目で、那古野家の若君の御前へと罷り越したのである。
男は流れ者の卑屈さを全く感じさせない涼やかな態度を見せ、那古野屋敷の奥庭へと立った。そこに急遽、設えられた小さな舞台の上で、舞い散る屋敷の庭の桜吹雪を借景に、朗々と謳いながら一差し、美事に舞ってみせた。事前に言上していた田楽踊りなどではない。これは、風流の極地とも言うべき高貴なる舞である。
堂々たる立ち振る舞いで舞い終わった男は、一礼し、ゆるり舞台を降りると、この家の主の言葉も待たずにそのままどこかへ去ろうとした。そして、慌てて呼び止める弥五郎の声を聞くと、向きを変え、静々と御前までやって来て、立膝で控え首を垂れた。
「見事な舞であった。褒美を取らす。」
弥五郎の声に、男はにっこりと微笑み、やや非礼な事ながらそのまままっすぐ顔を上げ、この尾張有数の貴人たる若君の瞳を見つめた。流れ者の容貌は上品な細面で肌は綺目こまやか、目元にどこか寂しげな翳を湛え、眼は少し潤んで瞳の光が幾つかに分かれて瞬いているように見える。そして御礼を言上するそのゆったりと落ち着いた声は、同席した全ての武士たちに感銘を与えた。
彼はそのまま数日屋敷の内に留め置かれ、そして一週間ののちには、当主の舞の師匠という地位を得て那古野弥五郎に仕えることになった。以降、彼ら二人は、密やかに衆道の関係をとり結ぶようになる。半年も経たぬうちに男の存在は家中にて隠然たる重味を備えるようになり、やがて織田因幡守家累代の重臣どもまでが、梁田弥次右衛門という名の、その流れ者の意向に、強い影響を受けるようになってしまったのである。




