第五章 乳房 (五)
秀吉と又助の、少し不思議そうな視線に気づき、弥三郎は慌てて補足した。
「いや、よ・・・実はそれがし、そのこと総見院様の側から直々にお聞きしたことあり。」
「なんじゃって?」
秀吉が、驚いて声を出した。
「覚えとったじゃと?乳飲み子のときのことを?」
覚えておられた、と言うべきところを、意識してかどうか秀吉は端折った。
「さよう。まさに、幼きご自身が噛んだ乳母たちの舌ざわりや味などを、実に、仔細に。もちろん、ひとりひとりの名や顔などではなく、ただそれら乳首の味や形や違いだけを覚えて居られたのです。」
弥三郎は、しごくまじめな顔で言った。
「あるものは突き出ている。あるものは乳房の肉のなかに埋もれている。固いものもあれば、それが首かどうかわからぬくらいにむにゃむにゃと柔らかいものもある。染み出してくる乳の味も、薄いものから濃いものまで、実にさまざま。そのようなことを、ことこまかに覚えておいででございました。」
秀吉と又助は、あぜんとして聞いている。弥三郎は、続けた。
「やはり総見院様は、常ならぬ御方。そして、噛み付いていたときのご自身の御気持ちすら、はっきりと覚えておいででした。満ち足りておらなかった、お館様はそのように仰っておられました。満ち足りず、赤子ながら心がうつろで、とにかくむしょうに腹がたった。だから、眼の前に突き出る乳首に、どれこれ構わず噛み付いたのだ、と。」
「なるほど。弥三郎さんは、お館様の脇に侍る機会も多かったしな。」
秀吉は、納得した顔で言った。
「そのような内々のことまで、聞けたのか。儂なぞ、後年は重臣のひとりと言われちょったが、上座からただ叱られ睨まれるばかりで、お会いするたび、生きた心地もしなかったぞ。もしかすると、実は弥三郎さんのほうが、儂より偉かったんじゃあ、なかろうか?」
秀吉はそう言って又助を見た。又助も頷き、遠い昔を思い出しながら、言った。
「特に若い時分は、弥三郎さんはお館様のお気に入りやったのう。ええ男振りだったし、舞や歌もうまく、鷹狩の差配などもうまかった。とにかく、いっつも脇に侍っていたのう、あの頃は。儂ら武辺者は、お側にすら寄れぬというに。」
「あの時分は、織田家も大変で。」
弥三郎は頭をかき、少し苦笑いしながら答えた。
「上総介(当時の信長の名乗り)様も、なにかと慰みを欲せられたのでしょう。舞も鷹狩も、身内からいつ討たれるかわからぬ日々の心労を癒やすための、ただの気慰みであったかと。拙者、軽輩ながら、そうした祭りごとや芸ごとなどについてはいささか得意ゆえ、あの時分だけは、特に重く用いられたのでございますよ。その後、天下を圧する偉大なお力をお持ちになってからは、拙者は、あまり用が無くなり申した。」




