第五章 乳房 (二)
その、そつのない弥三郎の慰めの言葉に、秀吉はほっとしたような顔をして言った。
「わしゃあ、天下人なんかじゃ、ねえでよ!でも、昔の仲間にそう言ってもらえるとよ、この藤吉郎、少しは救われるでよ。」
「小さな戦では負けても、大きな戦では負けねえ。さすが藤吉郎さんと、儂ら古い見知りの仲でも、みんな言うちょる。」
又助が、朋輩言葉でさらに踏み込み上手を言った。秀吉の顔が子供のように明るくなった。そして答えた。
「ありがてえ!ほんに、ありがてえ。たとえお愛想でも、剛勇無双の又助さんにそう言ってもらえるとよ、ほんに慰められるで。」
そして俯き、ひとつ深い溜息をついた。さらに間をおいて、畳を見たまま、絞り出すようにこう言った。
「この藤吉郎、ご存知のとおり昔から気の小せえ男でよ。そのぶん、あちこち気を廻して、ただにこにこ笑って生きてるうち、どえりゃあ運が向いて、今じゃ筑前なんぞと名乗ってふんぞり返ってるけどよ。中身は昔と変わらねえ、ただの小心者だで。」
顔を上げた。無理に笑ったような皺々の表情を作り、
「弥三郎さんとよ、又助さんにゃあ、ぜってえに隠せにゃあで。」
と言った。
「羽柴の藤吉郎殿、いささか、お疲れの様子じゃな。」
又助が、また朋輩言葉で言った。
「疲れたよ、疲れたよ。ほんに、疲れた。」
秀吉は素直に認め、心中を吐露した。
「お館様が身罷ってからというもの、一日たりとて、気を抜ける日が無かったからよ。高松の陣でそれを知るや否や、昼夜問わずに駆けて謀反人をやっつけ、いろいろ面倒臭え綱引きやって、御曹司をひとりと、お家の御家老と、お館様の妹御まで一緒に自害させてよ。昔はただ見上げるしか無えような雲上人ばかりよ。これだけでも儂は、日ノ本一等の極悪人じゃい!」
一気呵成に言うと、少し声を落としてこう続けた。
「と、たぶんみんな、そう言っちょるでよ。わしゃ、知っちょう・・・儂自身が、もとは名もない民草だしよ。しかもこの戦じゃ、愚鈍なはずの三河狸にさんざん、してやられてよ。幾千も味方を死なして・・・戦のほうは、今はなんとかなってはいるけどよ。どうなるかわからねえ先のことを、これから全部自分で決めなきゃなんねえ。どえりゃあ、辛いよ。」
「我ら、ともに軽輩。筑前殿の地位の高みに達したことはないゆえ、ご心中、お察し申し上げることすらできませぬ。」
弥三郎が、静かに言った。
「おそらくは、あまりに重い責任が、背にのしかかっておられるのでござろう。じゃが、筑前殿は、立派に耐えておられる。又助さんも拙者も、そのこと、心底から感じ入っておりまする。この弥三郎、大恩ある御本所(織田信雄)のもとを敢えて離れ、筑前殿にお味方して良かったと、いま改めて思った次第。」
「さよう。こうなりゃ筑前殿に、一刻も早うに天下を平らかにしていただかねばな。」
又助も同調した。そして、少しおどけた口調で続けた。
「軽輩ながら、我らも働くで。やれることは限られちょうが、なんでも言うてよ、昔みてえに。それに、そうすりゃ未だとたんまり恩賞も貰えるしよ・・・まあ昔は、逆の立場だったけどな!」
秀吉の顔が、またぱっと明るくなった。
「そうじゃ!又助さんになにか小さな御用を仰せつかって、あんま、たんまりとはいえん銭もらってそのつど大喜びしてたんは、この藤吉郎のほうじゃったわい!」
そう言い返し、三人はまた声を合わせて大笑いした。




