第五章 乳房 (一)
「まったくよ、手ひどく叩かれたもんじゃい!あの三河の狸によ。」
秀吉は、眉をしかめながら言った。
「筑前殿は、そのとき、どちらに?」
弥三郎は、穏やかに聞いた。秀吉は即座に答えた。
「小牧の城のすぐ近くにおった。あの二人の中入りを気づかせねえために、本軍の尻さ叩いて、攻めるふりさせてたのよ。我らのほうに注意が向くようにな。だが。」
「だが?」
又助が、興味津々といった風に聞くと、
「騙されたのは、こっちじゃった。この筑前が、みごとに狸に化かされたんじゃい!おみゃあさんたちだから素直に言うけどよ、あん時、まさか小牧山から狸が抜けちょうたあ、わしゃ、全く気づかんかった。」
こう言って憮然としながら顎髭をしごくと、やや赤みのさした猿の顔で、さらに苦々しげに続けた。
「あの、狸めが!正直者でお人好しみたいな面を提げおってからに。いつの間に、あんなに人を化かすのが上手くなったんじゃい!こっちが形ばかり当たってみただけでよ、城方から矢玉がわんさと飛んできて、兵足軽どももあちこち立ち騒いでよ。闘志は烈々、ありゃあ、総大将がすぐ近くで見て居るときの戦い振りじゃあよ。とにかく、この筑前もすっかり、そう思わされたわい。奴がまさに、小牧の城に居って陣頭指揮しちょるとな。」
「ところが、その三河殿は・・・。」
「そうよ、そん時ゃあ、遠く小幡 (城)を経由して長久手の丘の上よ。あのうつけの三助 (信雄)と並んで高みに陣し、ゆうゆうと勝三郎殿を見下ろし、討ち取りおった。」
苦々しさのあまり、秀吉は旧主の息子を呼び捨てにした。そしてあろうことか、口汚く罵声まで浴びせた。少し前までその配下だった男が、いま目の前に座っていることに気づき、わずかにぎょっとした風だったが、やがて腹をくくったように続けた。
「とにかく、してやられたんじゃい!この筑前が。こっぴどく、三助と狸めに、してやられたんじゃい!あの一戦に関しちゃ、まさしく完敗じゃ。なにもかも、読まれておった。して、いちいち先手を打たれておった。」
秀吉本人の言う通り、この明けっ広げの素直さは、本日の座談の相手が、旧知の又助と弥三郎だからこそのことであろう。最高権力者のこの意向に応えるため、両名とも秀吉以上の正直さを以て、遠慮なく思うところを申し述べるべきなのは自明のことであった。だが、現在の立場や地位の高下、さらに話が全員共通の旧主家に関わることでもあり、その秀吉の口調に、すぐと同調することはやはり、憚られる部分があった。
又助も弥三郎も、微妙な空気を察し、おたがい眼の端で意識を向け合って、その秀吉の言葉にどう対応するか、無言のまま相談し合った。やがて、軽く頷いた弥三郎が、にこやかな顔をして言った。
「たしかに、長久手では完敗。それは、市井でも下々皆々そのように噂しており申す。されど、そのあとはめざましく失地回復し、半歳経てば、かくのごとく羽柴方がほぼ勝ちを収めておるに等しい状態。戦わずして勝つ。その腕前、さすが次なる天下人などと遠近で言い交されてござる。目先の小さな負けひとつで、なにも筑前殿が恥じ入ることはござらぬ。」




