第四章 罠 (四)
「とにかく、不思議なのはよ。」
秀吉が、言った。
「なぜ池田勝三郎恒興ほどの将が、あそこであんな道草喰ったか、いうこっちゃい。」
勝三郎とは、勝入斎の名乗りをする前の池田恒興の通称である。当時の地位の高下からして、秀吉が、この通称で恒興を呼べることはなかったはずだが、いまや天下一等の出頭人となった彼は、もはやそのようなことに何ら頓着してはいない。
「なにしろ、織田家でも最古参の将じゃ。戦陣にあっての経験も豊富。脇にはあの鬼武蔵が控えちょう。たしかに両名とも勇猛果敢で、いささか猪突する風はあるが、あのとき、なにが一番大切なのかは、わかっていたはずじゃ。」
「よもや、背後から敵軍に追われているなどとは考えてもおられなかったのでしょうな。夜闇に紛れての敵前移動がうまく行き過ぎたが故、完全に敵の裏をかいたことで、小城のひとつふたつ踏み潰す程度の余裕はある、と勝入入道は判断なされたのでしょう。」
又助が言った。彼は恒興を、出家後の尊称で呼ぶ。
「じゃ、いささか、軽忽であった、ということかよ。」
秀吉は、少し不満そうに言った。
「確かに、そうかも知れぬ。だけどあの親子は、本当に織田家きっての名将ぞ。戦において、今なにが一番大切か、そこを見誤るような愚将じゃ、にゃあでよ。そんな奴らなら、この筑前も、初めからああまで大事な役割なんぞ、任せんわい。」
「岩崎の城が、帰り路の邪魔になる、とお考えだったのかもしれませんな。」
弥三郎が、又助に助け舟を出した。
「今は小勢なれど、帰る頃には援兵なぞ入っていささか厄介になるかも知れぬ。邪魔者は、あらかじめ潰しておくのが得策、と。」
たしかに岩崎城は、小牧山より連なる織田・徳川方の城砦線から外れ東南に孤立した城砦で、もっとも隣接する味方拠点からも遥かに離れている。ここさえ潰し、逆に味方の哨戒拠点としておけば、その周囲数里にわたり、ひとまず帰路の安全を確保することができる。
秀吉は顔をしかめ、少し苦々しげに、頷いた。
ひとまず秀吉を頷かせたとはいえ、又助にも弥三郎にも、今の秀吉の心中は、実によくわかる。彼らは、大軍こそ率いてはいないが、それぞれ織田家中に数十年間も出仕する、熟練の領主であり、軍人なのである。
予め申し合わせた中入りの作戦目的は、敵陣背後の撹乱と、敵主力軍の陣地線からの誘い出しである。大地につけたひっかき傷の中へ立てこもる敵どもを焦らせ、さらに背後の味方根拠地を奪われてしまうかもしれないという恐怖を与え、彼らに意図せぬ形での野外決戦を強要し、約三倍の数的優位を誇る羽柴方が、濃尾の野でこれを悠々と撃砕する。
ここまでが、一連の流れである。すなわち、池田・森の中入り軍は、常に機動し、絶えず神出鬼没の活動を繰り返して、敵にその在所を把握させないように努めなければならない。
事前の入念な討議や軍議で、その作戦の第一義をただしく理解しているはずの歴戦の名将二人が、いくら初動が首尾よく運んだからとて、そのことを忘れてしまうほど、敵中奥深くで慢心してしまうものであろうか。
そんな秀吉の困惑が、弥三郎と又助に、直に伝わってきた。




