第四章 罠 (三)
この舅が数日前の夜半、自陣にこっそりと忍んできたときのことを、勝蔵は思い返した。池田勝入斎恒興が、この野心的な、しかし危険に満ちた中入り策を立案したのは、まさに娘婿である勝蔵を救うためであった。
勝蔵が、羽黒の陣で仕出かした、あまりにも無様な大失敗。その失地を回復させ、義理の親子同士で、羽柴筑前守が約束した尾張を共同統治する夢を叶えるため、池田は、犬山の奪取に続くさらなる大勝利を必要としていたのだ。
「できる。できるぞ。生半可な軍では無理じゃ。しかし、そちと儂ならば、必ずできる!」
娘婿にというより、ただ自分自身にそう言い聞かせようとする義父の、どこか寂しそうな笑顔を、勝蔵は懐かしく思い出した。まだ、ほんの数日前のことなのに、なんだかひどく昔のことであるような気がする。
おそらくその時、この作戦の無理を、彼もわかっていたに違いない。戦場において必ず起こる、事前の想定を越えた突発事、そして計算間違い。それらのうち、ひとつでも我らに祟ることがあれば、この中入り策は、おそらく悲惨な失敗となって終わるであろう。そしてそれは即座に、敵中における全軍の潰滅を意味する。
そしてまさに、そのあってはならぬ計算間違いが起こった。よりにもよって歴戦の将・池田勝入斎が、敵中で判断を誤った。小勢の岩崎城を陥とすのに空費した、貴重な数刻。うち棄てておけば。定石どおりに無視して通り過ぎておれば。この袋小路のような谷底で、敵の主力軍にむざむざ捕捉されることは無かったであろう。
しかし、舅のその判断間違いも、ひとえに勝蔵の失点を取り返すために欲した、ついでの勝利を得ようとしてのことだったのに違いない。すべての原因は、自分にある。断じて、舅の所為ではない。
わかっていた。これは、最初から極めて危うい賭けであった。しかし、追い詰められた親子はそれに賭けた。そして案の定、その賭けに負けた。
歴戦の部下たちに動揺はなかったが、それは、彼らが眼前に広がるこの絶望的な光景を見て、既に静かに死を覚悟しているからであった。万にひとつの勝機もない。だが、怯む様子を見せる者も、将を責めるような眼をする者もなかった。彼らはみな、一騎当千の精鋭であった。
勝蔵は、思った。
連戦連勝の栄光に満ちたこの軍団の戦歴の末尾に、全滅という汚点を残すのだ。兵どもには、なんの責任もない。彼らは誇るべき精兵だ。だが、将が阿呆だった。私情に流され判断を誤った主将と、その凡暗な婿が、揃いも揃って敵の仕掛けた罠に嵌まってしまった。敵はすべて予めすべて予知していたかのように、我らをこの首狭間という忌まわしい谷間に追い込むことに成功した。
そして、そのすべての原因を作った凡暗な婿が、儂だ。鬼武蔵などと自称し、怖いものなしでそこらを闊歩し、十文字槍を振るい、ただ気分のままに人を見下し、嘲り、傷つけそして斬った、この森勝蔵長可だ。
勝蔵は、ひとつ溜息をつき、改めて谷底から頭上の敵どもを見上げた。次いで、これから共に死地につく勇敢な味方を見廻した。そしてそのあと、誰にともなく、小さくこう呟いた。
「あ奴の口車にさえ、乗せられなければ、な・・・。」
しかし彼のその呟きは、川のほうから首狭間を吹き渡る寒風に乗せられ、誰もいない谷の奥へと消えていってしまった。




